「知識」を「知恵」に変える力

2020年2月17日

知の体力 永田和宏 新潮社

著者の永田和宏氏は、テレビ放送でもよくお見掛けする歌人というイメージでした。京都大学名誉教授であり、ご専門は細胞生物学とのことです。もちろん歌人としても大活躍されており、歌集の出版はもとより、宮中歌会始の選者をはじめ様々な歌壇の選者もなさっています。

そんな経歴の著者が今回我々に送ってくれたのが、この『知の体力』という一冊。内容では得られた一次情報を、自分の内面の経験や記憶などの「係数」をかけることにより、その状況に応じて応用可能な情報に置き換える力を「知の体力」と呼んでいます。

これはまさに我々が目指すべき「知識」を「知恵」に昇華させるという流れであり、「知識」一辺倒の考えに陥りがちでAIに負けそうな我々が、今後気を付けて鍛えるべき体力だと思います。

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石通りに打っていては負ける、というのが実際の勝負の場であるはずである。大学を卒業して、たちまちに出会う社会での問題は、このような定石では太刀打ちできない問題であることのほうが圧倒的に多い。(P19)

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学校で学ぶこと

やはり学校教育というのは、「道具」を与えることに過ぎないのでしょう。その「道具」の使い方を身につけてくのは、実社会に投入されて「人」を相手にするようになってからだと思います。

専門学校や医学部、薬学部、教育学部など実務系の大学などでは、ある程度教育課程内に実習といった「道具」の使い方を学ぶ機会はあるかもしれません。しかし、それも「実習」の範囲を出ないと思います。実際に人を相手にするための初歩学習や「体験」としての意味が大きいと思います。

ノコギリやカナヅチの基本的な使い方を教えられて、端材などで使う練習をするかもしれません。しかし、実社会で相手にする人間や出来事は、端材のように「切ってくれ、打ってくれ」というものではありません。その相手に応じて、どのように応用して使うかが大事です。

学校では「こういう場合はこうする」といったパターン化した解決法というか対応を教えることしかできません。実際に人間や社会を相手にして出現するパターンレスな出来事には、それまで手にいれた「道具」と「経験」を駆使して応用して当たっていく必要があります。

「こういう場合にはこうする」という考えは、まさに「マニュアル」であり、試験勉強で身につける「問い→答え」のパターンです。

「こういう場合にはこうする」という「定石」のみで当たっていっては、太刀打ちできない出来事も起こるのが人間相手、社会相手の仕事です。なにか「考えかたの芯」のようなものを持って、pivotalに対応できればと思います。

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しかし、何かをやるとき、あるいはやったとき、すぐにそれが何の役に立つかを考えるという思考パターンについては、それでいいのかという反芻をしてみる必要があるだろう。それは、何かをやるときはその効果、効用、あるいは見返りがあるはずだという考え方そのものへの疑問であると言ってもいいかもしれない。(P40)

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期待される効果についても、事前情報として知ってしまうと、その効果のみを期待して、先入観によって案外の効果を得られなくなってしまうということもあります。

たとえば、運動するときに、「運動によって体重を減らす」ということにこだわってしまうと、そのことばかりに気が向いてしまい、ストレス解消であるとか、運動の楽しさのようなものが感じられないこともあるでしょう。

しかし、現代はお金が中心の等価交換の時代であり、コンビニなどでお金を出せば瞬時に商品を手に入れることができます。その流れからか、勉強や技能・資格の習得についても一定の費用を払えばその見返りとして知識が技能が身につくと考えてしまいがちだと思います。

あまり〇→〇のようなギチギチした考えもつまらないと思います。なにがおこるか分からないが、「とりあえずの修得目標は考えておいて、ほかにもなにか得られるかもな」くらいの気持ちで良いのではないでしょうか。

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勉強や読書は、自分では持ちえない<他の時間>を持つということでもある。過去の多くの時間に出会うということでもある。過去の時間を所有する、それもまた、自分だけでは持ちえなかった自分への視線を得ることでもあるだろう。そんな風にして、それぞれの個人は世界と向き合うための基盤を作ってゆく。(P58)

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勉強や読書はまさに、時間を超え空間を超え他人の時間を共有する、あるいは架空の時間を共有することができるすべです。なかなか自分の周囲の出来事のみでは経験できることに限りがあります。自分の経験のみでは、世界と向き合うための基盤づくりに必要なものが、足りないかもしれません。

一方、読書をすることによって、自分一人で様々な局面に対応して過ごしていくだけの人生ではとてもなしえない経験を、得ることができます。そういった経験から、人は自分の立ち位置というか、基盤を作っていき、四方八方から向かってくる情報や知識に太刀打ちしていくのでしょう。

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インプットされた一次情報にどのような係数をかけて、実際の場面で応用可能な情報に置き換えるか、それが知識の活用ということに他ならない。先に書いた「知の体力」とは、そのような現実の場で応用可能な、情報活用の基礎体力のことであった。(P74)

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知識と知恵の違いは様々なところで議論されています。著者は「知識」は一次情報であり、それを自分にとりこんで係数をかける、つまり自分なりの加工をして、実際の場面で応用可能な情報に置き換えるための力を、「知の体力」と言っています。

「知識」は情報のストックされた状態、いわばカチコチで使いにくい状態でしょう。知恵はそれを解凍するなり、ねかせるなり、あるいは料理するなりして、風味豊かで融通無碍に使用することができるおいしい状態になったものでしょう。

係数のかけ方は、人それぞれだと思います。それまでの経験や記憶、他の知識との掛け合わせなど。そのため、一つの知識もそれを使う人によって、まさに様々な特色をもった知恵として応用されるのでしょう。

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授業は、そしてそこで提供される「知」は、受け取って当然という態度からは、ほんとうに大切なものが欠落してしまうと思うのである。教師の側も給料をもらっているから、といあえず授業をするということでないことは当然のことであるが、受け取る側も、与えられて当然、それは権利であるといった考え方がはびこると、大学における「知」の伝達が深刻な困難に直面することになる。(P119)

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等価交換の時代においては、大学などの講義でさえも、お金を払ったのだから(プラス少しの忍耐も払って)「知識」が得られる、はたまたお金をた払ったのだから「単位」が得られる、などと考えてしまう輩もいるかもしれません。

しかし、勉強してただ「知識」として自分のなかにストックするだけなら、いわゆる過去問などをくりかえすほうがよほど効率的でしょう。得られた「知識」を、将来自分が応用できる「知恵」に変え、自分の成長に寄与するようにするには、「謙虚さ」が必要と思います。

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本を出版し、それを読者が購入して読む。これはいまや当然の社会的行為であるが、そのような流通の考え方のなかで、抜け落ちてきたものが、書かれている内容に対するリスペクトではなかったか。尊敬、敬意を持ちつつそれに接するという読む側の態度ではないだろうか。(P125)

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知への敬意

本を作るのも、非常に大変なことだと思います。私なんかはこういう文章を書くだけでもフウフウ苦労していますから。

しかし、本も大量生産、大量消費のような時代であり、さらには電子書籍などの登場によって、より価値が、というより内容に対するリスペクトが低下していると感じます。

勉強、成長においては謙虚さとともに、尊敬・敬意も必要だと思います。

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ある特定の<相手>の前に立つと、自分がもっとも輝いていると感じられることがあるとすれば、それはすなわち相手を「愛している」ということなのだろう。その相手のために輝いていたいと思うことが、すなわち愛するということなのである。(P217)

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自分の立ち位置、確乎たる立場を作ることは、周囲を相対化してその深さ、広さを見るのに必要だと思います。それはいわば他者の視線を意識したなかで自分の位置を見定めるということかもしれません。

周囲の人間全員つまり他者の視線を気にしていてはしょうがないし、何もできなくなってしまいます。ほとんどの場合、他者の視線はある程度良識を外れない程度に気にしながらも、あまり気にせずにやっているものです。

しかし、そこに非常に視線が気になる他者が現れたとしたら。そして、その「相手」の前に立つと、自分が輝くことができるとしたら。それは「愛している」ということだということです。

言われてみればそう思います。

自分の仕事上の能力、人間関係も自分の「立ち位置」を作るのに重要な要素です。しかし、周囲の「他者」のなかに特別な「相手」を見つけて、その「相手」を意識することが、さらに自分の立ち位置を高めてくれると思います。

これはまさに、アドラーのいう人生の3つのタスク「仕事、交友、愛」ではないでしょうか。これらは人生のタスクである以外にも、人生において自分の立ち位置を作る要素としての意味も、あるのかもしれません。

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歌人であり科学者でもあるまさに二足の草鞋の著者からのメッセージは、膨大な「知識」を実際の場で生かせるようにするための「知の体力」でした。

「知識」を「知恵」に。これは人間がAIとは違って人間らしく生きていくために必要なことであり、決して勉強や研究のみならず、日々の生活や生き方にも当てはまると思います。

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