読書と人生

2020年2月8日

人生論としての読書論 森信三 致知出版社

森信三先生(明治29年愛知県生まれ、平成4年11月逝去)は教育者であり、哲学者であり、私の尊敬する人間学の師であります。

代表的な著書の『修身教授録』は、先生の教育者時代の講義録であり、学生への講義を通して人生を生きるための原理原則となる人間学を浮き彫りにしています。

先生は非常に熱心な読書家でもあり、その経験から独自の読書論を著しておられます。それが、今回紹介する『人生論としての読書論』です。

大まかな内容について、目次を見ますと、一 読書と人生、二 書物の選択、三 本の読み方、四 読書による人間の確立、五 読書における場所の問題、六 読書と年齢、七 読書と職業、八 読書と実践、九 人生の浄福といった内容であり、人生論から実用的な読書法、さらには職業や生き方と読書についても書かれています。

読書の意義や、自分と読書の関係について一度考えてみたい人は、ぜひ読んでいただきたい本です。

(一)われわれ自身がこの二度とない人生をいかに生きるべきかという問題を中心とする読書、即ち人生論とか宗教関係の読書と、

(二)次には、自己の職業を中心とする読書、即ち専門的な読書と、

(三)今ひとつは、以上の二つを合わせたものを中心としつつ、自分の生命力を半径として出来るだけ大きな円周を描こうとする読書、即ち広義における教養としての読書という、以上三つの大きな部門に分けて考えることが出来るであろう。(P17)

読書の意義を、森信三先生は上記の三つに分けています。まず人生に関する読書。これには様々な人生論や先人がこれまで考えてきた哲学、あるいは宗教が当てはまります。

次に自己の職業に関する読書。これはそれぞれの職業について、その技術の助けとなり、スキルアップに役立つものから、職業人としての考え方、生き方に関わるものもあるでしょう。

そして、教養としての読書。森信三先生の読書についての重要な考え方として、この「中心と半径による円周」というものがあります。

何となれば、「研究」とは何よりも思索がその中心を為すべきであろうが、しかもわれわれの思索は、直接にか間接にか、自らの経験を離れてはあり得ないからである。

いわんや学者ならぬ普通一般の人々の場合には、自己の職業に対する研究とは、何よりもまず事実そのものに対する認識と洞察とが、その中心とならねばならぬであろう。(P259)

円周の中心となるものは、自己の職業のために行うあらゆる努力と研究を要するものであるといっています。まず自分の職業を通して、自己の立場を固め、そこを中心として世界の広さ、深さをみるといった感じでしょうか。

世の中にはさまざまな職業があり、一つの職業のなかにも様々な分野や役割が分かれています。たとえば、医学部であれば同じ医師になるとしても、外科や内科、放射線科や病理診断医など多様な分かれ道があります。

しかし、医師という職業の使命は、患者さんを良くすることです。自分が何科になろうかと楽しく迷うこともいいですが、(なかばだまされても)さっさと一つの科に足場をおいて、患者さんや病気というものに当たっていく姿勢をとることが、医師という職業の生き方において重要だと思います。

そして職業の中にあっても、自らの仕事をつねに「研究」することにより、立ち位置をしっかりして自分の円周の中心軸を太く深く基礎打つことが重要なのでしょう。

・・・そうした人々に対しては「読書は心の食物」と言って来ているのである。(P28)

・・・わたくしはつねに言うのである。「読書とは、われわれが心の感動を持続するための最もたやすい方法である」と。(P38)

 実際われわれ人間が、この地上にあって直接経験しうるのは、きわめて狭少な範囲に限られているのであり、随ってもしそれだけに留まるとしたら、その人の生活内容は実に貧寒だという他ないであろう。(P318)

読書をしていますと言うと、なんのために読書をするのですか?と聞かれることがあります。「読書は心の食物」という言葉を知って、私も聞かれたらこう答えています。我々は身体のための食物は毎日三度取り入れているのに、心のための食物は積極的に取り入れようとはしません。

もちろん、日常生活の経験や職業上の経験も重要な「心の食物」でありますが、読書はさらに効率的な摂取法だと思います。さらに読書によっては、知識を取り入れることはもとより、時間も空間も超えた経験を共有することができるでしょう。

そして、読書は「心の感動」を持続するための方法であるといいます。知識を状況に応じて適用することはAIでもできます。しかし、相手の境遇や心情などを感じて、それに応じて知識を使用する、あるいは結果に一喜一憂してその印象を次に生かすといった、「感情」や「パッション」を組み入れた作業は人間にしかできません。

AIに仕事を代替されるのを恐れながらAIみたいなことしかしていない人が多いこのごろ。AIにはできない「心の感動」を持続するためにも、読書を続けていきたいものです。

そのうえ経験は、単に経験だけでは、ともすればマンネリズムに陥るが、その堂々巡りの円環を切って、螺旋的転回に転ぜしめるものこそ、真の意味における読書というべきであろう。同時に、ここまで辿り着くことによって、われわれは初めて職業と読書との、真の本質的連関を知るに到ったわけである。(P261)

職業業務も慣れてくればマンネリになる内容があります。そこに、日頃の読書で得られた知識を持ち込んで、実際に使ってみる。たとえば、患者さんへの説明にエビデンスを取り込んでみるとか、心理学の知識を使ってみるとか。そうして知識を知恵と昇華することが、「堂々巡りの円環から螺旋的転回」に持ち込むきっかけとなるでしょう。

先ほども引用した、「研究」を仕事に持ち込むことだと思います。そういった姿勢で日常業務や雑用をこなしていけば、いつか新しい発見や気づきに出会い、螺旋状に一段高い位置にたどりつけるかもしれません。

だが現実としては、人によっては自己の立脚点から逸脱して、知的観念的な彷徨をするものもないわけではない。いわゆる書に淫するインテリ型の人間には、往々にして見られる現象であるが、これはいわば円周を拡大しようとして、円心そのものがぐらつくに似ているとも言えるであろう。だが円心にして、確乎として動かないかぎり、円周の拡大の望ましいことは、もとより言うまでもないであろう。(P262)

・・・わたくしの考えでは、一般に読書好きと言われるような人々が、ともすれば陥りやすい自己の欠点を克服するには、自分が現在しなければならぬ眼前の仕事を、まず片づけておいて、しかる後読みたい書物を読むがよかろう―というのである。

 即ち現在自分がしなければならぬ仕事―例えば提出期限の迫っている書類を仕上げないで、読みかけの本の興味に引かれて、提出期限を遅らせるようなことの断じてないように―というようなことから、着手すべきだと思うのである。(P308)

読書の弊害として、この二点は大いに注意すべきと思います。

まず、自己の職業をなおざりにして教養の範囲を拡げてしまい、円周は拡がったが円心としての職業がどうにも宙に浮かんだ状態になってしまうこと。自らの確乎とした立場があっての教養です。

また、読書にかこつけて職業における仕事を後にしてしまうこと。たしかに仕事は雑用も多くマンネリなものが多いと思いますが、やはり眼前の仕事を、まず片づけることが重要です。

私も非常に耳が痛い言葉であり、気を付けたいと思います。

そして、これらのことをまとめているのが、論語にある「行い余力あらば以って文を学ぶ」です。学問も大事ですが、より大事なのは人間として当然なすべき義務であります。

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最近、この本を再読してみましたが、数年前に最初に読んだときとは違った点や内容に興味をもって、新たに付箋をつけることも多かったです。

自分が数年前とは変わり、見方も変わったのでしょうが、なんとなく本自体も時間がたつと成長しているような、妙ではあるが心地よい印象を受けました。

良い本は、ときどき再読してみるといいかもしれません。

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