メモの魔力 前田裕二 幻冬舎 NEWS PICKS
私は、少々ひねくれたところがあって、自己啓発本やビジネス書に対しては(結構読んでいるくせに)少し落とし眼に見る傾向があります。
「そういう話は、すでに古典に書かれてある」なんて言ったりして。
この本は、よく売れている本です。一昨年末の発刊ですが、2019年の「一番売れたビジネス書」でもあり、書店では今でも平積みになって目を引いています。
だけど、そういった目で見ていたりしたこともあって、「自己啓発のための方法論を書いた、乱発される似たような書籍の一つ」と感じ、あまり手は伸びませんでした。
しかし、他の読書ブログで紹介されているのを拝見して、ちょっと読んでみようと思ったのでした。(『明日につながる読書 あすどく』というサイトです。この本と出会いを、ありがとうございます!)
*
これは、「抽象化」についての本です。とくにその実践編といった感じを受けました。
抽象化については、これまで細谷功氏の著書を中心にご紹介してきました。
細谷功氏の「具体、抽象」に関する本たち(『「具体」と「抽象」』、『「具体⇄抽象」トレーニング』、『地頭力』)が基礎知識編とすると(もちろん、各本とも十分な応用が載っています)、この本は、「ではどのように行動するか」という、実践編として、方法の一つを提示してくれている気がします。
終章からもものすごく感じましたが、著者は幼少のころの原体験から受け取った「感情」を大切にされ、自分を分析し、「夢」を持ち、そこに向かう「熱」によってこの方法を編み出し、そして広めてくれています。
この本の良かった点は、「抽象化」についてのすぐれた方法論を紹介してくれるメインコンテンツのかたわら、「熱」の重要性を感じさせてくれたことです。
生き方において「熱」や「情熱」がクサイと感じられるこの世の中(私だけかもしれませんが)、「そんなことはない、『情熱』を持って生きていていいんだ」としっかり感じさせてくれました。
読んで良かったです。
「ファクト→抽象化→転用」という最強のフレームワーク
(P46)
つまり、具体→抽象→具体の流れです。抽象から再び具体に舞い降りるときに、今の自分が直面している問題や考えに合わせ、応用します(転用)。
頭の中で考えることもできますが、ここで手を動かしてメモにすると、視覚的にも分かりやすいし、記録としても残るのです。
思考トレーニングとして、常にこの流れを考えて物事に当っていければいいのですが、最初はうまくいかないと思います。
メモに残しておけば、後から見直すこともでき、「ちょっとここの抽象化が甘いかな」など、反省の材料にして、このフレームワーク利用を上達させることができます。
直感は、よほどのことがないと人を動かしません。
(P97)
私も、「直観が大事」と考えていました。しかし、それを「言語化」しないと具体的にどのように行動するとか、人に伝えたり指図したりすることができません。
「右脳を大事に」することは確かですが、右脳から汲みだした「直観」を実用するためには、左脳の働き(言語化)が必要なのです。
よく、何か失敗や問題が起ったときに、「あっ、俺はそうなると思ったんだ」などと、後から感じることがあります。
それは事前に感じた「直観」なのだと思いますが、それを言語化して表出しないで、起こってしまってから言っても、あまり役に立ちません。
かといって、「“直観”ですが、こう思います」、「“なんとなく”、こうではないでしょうか」というのも、よほどの人物でなければ受け合ってもらえないでしょう。
ある程度の、理論や過去の知識やデータなどで裏打ち補強して、「こういう可能性も考えられます」程度に述べ、頭の片隅に置いておいてもらえば、失敗や問題を回避する助けにはなるかもしれません。
いずれにしても、「言語化」は大事です。
人は、概念に名前をつけないとそもそも思考できません。記憶もできないし、他の何かに応用することもできない。人間は抽象化、そして言語化することによって、クリエイティビティを獲得しているのです。
(P103)
メモは頭で受け取った情報や、浮かんできた考えを言語化して書き記します。この言語化というのが、意外と難しい。
逆に言語化してしまうと、感じていたことが限定的になり、すべてを言い表せていないような、とりこぼしがあるような気もすることがあります。
そこは、ある程度訓練も必要で、徐々に自分の感じたこと、考えをうまく言語化できるようになるのでしょう。
「またこの話・・・」と思われるでしょうが、概念の言語化は私がよく言っている「得体のしれない相手にとっかかりをつける」ことに似ていると思います。
そのままではどう扱ったらよいか対処に困る、つかみどころのない概念に対して、円周率を3.1にしてしまうように、その繊細な機微は多少失われるかもしれませんが、扱いやすくするわけです。
言語化された概念は、記録や記憶に残ります。さらにモノのように扱うことも可能となります。誰かに伝えることによって贈与したり、反応をうかがうことによって交換することが可能となります。
これはまるで、飲みにくい粉薬をカプセルや錠剤にする、豆乳を豆腐にすることだ、などと陳腐な連想をしてしまいました。
しかし考えてみると「扱いやすくする」という面で見れば、物々交換を「貨幣」媒介にしたり、物の多寡を「数」で表したり、植物に一時的に生じるきれいな部分を“花“という「言葉」にしたりする、つまり「抽象⇄具体」ということですね。
自分を知り、自分の望みを知らないまま、どんなビジネス書を読んでも、どんなセミナーに行っても、まず何も変わらないでしょう。まず「自分を知る」ことがなにより重要です。
(P118)
読書も勉強も、手段でしかありません。料理における包丁であり、ガスコンロの火であり、化学反応における触媒です。
まずどんな素材があるのか。そんな料理を作りたいのか、どんな化学反応を進めたいのか、これらがないと、なにも出来上がりません。
読書も勉強も、それによってどんな自分を作りたいか、どんな化学反応を起こしたいかを知らないと、うまく作用させることができないでしょう。
火加減にしても、ご飯を炊きたいのか茶碗蒸しを作りたいのかで違います。触媒にしても、塩化アンモニウムを作りたいのか、排気ガスをきれいにしたいのか、目的によって異なります。
自分という素材を知り、その素材をどのように変化させたいのかを知ること。これがスタートであり、一番重要な土台なのです。
その熱は確実に自らを動かし、人を動かし、そして人生を、世界を大きく動かします。
(P207)
自然界でも「熱」は様々な反応を進めます。人間の中では、「情熱」が様々な行動を進めます。
熱は大きいと「火、炎、爆発」となり、破壊力を持ちます。一時コントロール不能になることもあります。戦争など破壊に使われることもあります。
しかし、その勢いで文明は発達してきました。人力・馬力だけではとうてい成し遂げ得ない偉業を、人類は蒸気機関、内燃機関などのかたちで「熱」の力を使って成し遂げてきました。
人間の行動における「熱」の役割についても、同様だと思います。
「怒り」という方向でときどき戦争状態になることもありますが、基本的に人間の「熱」すわなち「情熱」は、行動の推進力です。
冷静に、水力、風力のように理性的に考えているだけでは、あまり発展しないことが多いと思います。
「情熱」の火力、原子力のような莫大なパワーを使って、突き抜けた発展や成長が望めるのです。(もちろん、制御は必要です。ここは、「謙虚さ」などの出番かな・・・)
推進力を得た人間の行動は、制御すれば危険なものではありません。適度な「情熱」は、運動のなかではランナーズハイのような状態をもたらし、思考や作業の中ではチクセントミハイの言うフローのような状態をもたらすだけだと思います。
******
古典に「現代語訳」という“言葉”の翻訳が必要なように、「現代“背景”訳」とでもいいましょうか、現在の時代背景に合わせて分かりやすく、応用しやすく書き直すことも、必要だと思います。
私めのように「そんなこと古典で既に言っているよ、それと同じこと言っているよ」とブーブー言うのは構いません。確かに中国古典などは、現在に通じる知恵の光を放っています。
しかし、それは人間の生き方にとって大事だから、人間の生きるいつの時代でも、どんな場所でも、「言葉」や「背景」を変えて語られ、伝えられるのだと思います。
はずかしながら、今(2020年5月4日午前7時40分)になってやっと、このことを感じました。
これからは、そういった見方も得て、いろいろな本に付き合っていきたいと思いました。