サバティカル 中村航 朝日文庫
今回ご紹介する小説に出てくる「サバティカル」や「アセクシャル」という言葉については、恥ずかしながら私は詳しく存じませんでした。
サバティカルとはつまり、長期勤続者に対して与えられる、一ヶ月から一年間くらいある休暇のことだ。もともとは大学教員に多く採られていた制度で、長期間の研究や調査、執筆などの目的を果たすための休暇であり、あるいは何かを果たした後の休息、充電期間として用いる(P26)
サバティカルについては“休暇”程度には知っていましたが、その意義については知りませんでした。
アセクシャル(アセクシュアル)については、そういう言葉があること自体知りませんでした。なので、この本を読んで世界を見る目が広がった気がしました。
「アセクシャルって聞いたことありますか? 自分は多分、それだと思うんです」
・・・「他者に対して恋愛感情だとか、性的な欲求を抱かないっていう、一つのセクシャリティなんですけど」
・・・「でも、その言葉を知ったときは、すごく納得して、安心もしたんです。自分一人がそうなのか思っていたんですけど、人口の一パーセント近くいるとも言われていて……。言葉を知って、安心するってのも変ですけど……」
(P149-150)
いわゆる性別についてもLGBTQだとかそれ以上にいろいろあるだとか言われています。
LGBTQにしても、必ずしもその5つやそれ以上の分類に入らないことはあると思います。それこそ、人の数だけあるのかもしれません。
さらに、「アセクシャル」という、そういった性別によるとされる感情の動きがそうでもない人もあるでしょう。
これまで“何となくそんな感じ”と過ごしてきたことについて、それを示す言葉があり多くの人々に知られているということが分かると、不安感が和らぐ人もいるかと思います。
そういう言葉を知ることにより、生き方の可能性や選択肢が広がり、また他者を見る目にも広がりがもたらされるのではないでしょうか。
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中村航さんの作品については、まだ読書習慣のなかった高校生の頃に『リレキショ』を読んだのが最初でした。
当時は高校生活について、学業について、職業について、将来について、いろいろと悩んでいたような楽観的でいたような高校時代でした。
そんなとき、けして励ますわけでもなく、先行きを照らしてくれるわけでもありませんが、その作品は自分と同じ方向を見て寄り添ってくれた気がします。
将来について考えていたあの頃とは変わって、そこそこに年を経た今では自分の原点や原体験を見直すことも多くなりました。
最近ふと母校を訪れる機会があり、自分の根っこが“かする”程度にもそこに張っていることを確認しました。いや、わずかな根っこでも残っていることを確認したくて訪れたのかもしれません。
はるか幼少期に原体験をたどると、自分は何が好きなのか、何がしたかったのか、いろいろと思い浮かんできます。
それを今現在できているとは限りません。でも、この作品のようにときには「サバティカル」を考えて、それが難しくても自分の過去や原点をたどってみる時間をとることが、今を歩く足取りを支えてくれる気がしました。
空間的に自分を取り巻く世界や他者を見る目を広げ、さらに時間的に自分自身を見る目を広げてくれる良い作品だと思います。
毎日が非日常だった子どもの頃のことがベースになって、僕らは大人としての道を歩き出す。(P208)
幼少時の記憶はほとんど残っていません。ただなんとなく覚えているのは、幼稚園の粘土遊びで鉄道の高架線のようなものを作っているとき、「とっても器用だね」と言われたことです。
それが原体験となり、「自分は器用なのかも」と思いながら生きてきた気がします。そして、折り紙やら工作やらを積極的に楽しみ、多少難しいことに出くわしても「自分は器用なのだから」という思い込みのおかげで、なんとかかんとか進んできた気がします。
子供のときに言われた言葉は、大きいですね。それを考えると、教育の場における児童や生徒、学生に対する言葉、さらに家庭における子供への言葉には注意を払いたいものです。
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大人になった我々は確乎たる「日常」のもとに生きています。予定された起床、通勤、仕事、帰宅、あるいは夜勤、だれと会い、どこに行くか。
それに対して子供の頃は出会う時間のほとんどが、たとえ時間割表などで予定はされていても新鮮なことが多かった気がします。
たしかに知識や経験が少ないこと、分からないことが多かったことも影響しているかもしれません。
そうは言っても、今の大人になった我々は知識や経験はある程度あって、それほど分からないことに困らず生活しているので、「世の中そんなもんだ」という考えで覆って過ごしている感じがします。
そんな大人としての道を歩いてはいますが、ときには休暇やちょっとした時間をとって、いつもの「日常」とは異なる「非日常」を過ごすことが、「日常」を見直させてくれるかもしれませんし、自分の原体験、ベースに気づかせてくれるかもしれません。
サバティカルは旅だった。
きっと帰れる場所は、これからも増えていく。(P216)
よく“自分探しの旅”という言葉が使われます。「日常」に埋もれて隠された、おそらく今よりも良い自分の側面や能力、つまり“本当の自分”を発見するために、旅に出ることかと思います。
たしかに旅は「日常」には無い出会いや経験、あるいは発見に満ちており、そんな中で自分の見えなかった新たな一面を発見することもあるでしょう。
しかし、気付くべきは“本当の自分”ではなく、自分の原点や原体験、そして自分と周囲との関係なのだと思います。
自分の根っこがどこに張っているのか、いかに自分が周囲と繋がって生きているのか、周囲から助けられて生きているのか、というところです。
そのためには、空間的、時間的にいつもの「日常」から離れてみるのが良いのかと思います。
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それを達成させてくれやすい行動の一つが「旅」なのだと思います。旅は空間的にも「日常」から離れることができますし、いつもの「日常」とは異なる時間が流れるでしょう。
日頃住んでいる日本の良さも外国に行くと分かると言います。空間的に「日常」から離れることで、自分が日頃過ごしている場所や人間関係を俯瞰することができます。
「本当の自分なんてものはない、見つかるものではない」と考えて“自分探しの旅”を否定する人もあるかもしれません。
実際に旅をしたけれどあまりパッとした自分が見つからないかもしれません。でも、旅をすればその過程でいろいろと経験し、その過程に意味があると思います。
さらに、自分自身の“時間的な旅”も、良いのではないでしょうか。自分の原点や原体験を確かめることで、根っこを知ることで、いつでもそこに帰り、かすかなエネルギーをもらって「日常」に戻ることができるでしょう。