「読む」技術

「読む」技術 石黒圭 光文社新書

読書はいかに鍛えられるのでしょうか。おそらく、本を多く読むことも読書を鍛える一手だと思います。多くの本を読むことで、文章の構造や流れ、内容や物語の把握のしかたが身についてきます。

一方で、そういった文章の構造や流れ、内容や物語の把握、そして著者がその文章を通して、あるいはその物語を通して何を言いたいのかを汲み取るための「技術」もあります。

また、本を読むにしても勉強のために読むであったり、小説などを楽しむために読むであったりと、読む目的も異なります。目的に応じた本の読み方もあるでしょう。

多くの本を読んでその経験から共通点を見つけ出し、自分なりの読書法を身につけていく帰納的な読書法修得があります。

一方で、「読書法」について書かれた本を読んだり人の話しを聞いたりしてその方法を学び、無意識に統合して日々の読書に活かす演繹的な読書法修得もあります。

これは実践と理論の関係と言えます。本を読み読書経験を積むことが実践であり、読書における理論を学んで日々の読書に活かすということです。

そういった中で、この本は主に文章を読むこと、本を読むことの理論や具体的な技術について、体系的に書かれています。

「読書法」に関する即物的なハウツー本も数多くある中で、こういった本をじっくり読むのも、自分の読み方を見直して鍛えるのに良いと思います。

(太字は本文によります)

このように、視点には、「視座」「注視点」「視野」「視線」の四つがあり、これらが総合的に機能して初めて、文章中で「ものが見える」ようになるのです。(P106)

ここで言う「ものが見える」とは、もちろん単に視覚的に“見える”というだけではありません。

自分の立場から自分なりの見方をして、対象のどこに目を付けるか、そして奥に隠れた見えないものさえもキャッチするか、というところでしょう。

まさに「ものの見方、考え方」の“見える”です。

そのために大切な要素が、ここで述べられている四つだと思います。つまり「視座」「注視点」「視野」「視線」です。

視座というのは、対象を見るにあたっての自分の立場といったところでしょうか。同じ対象を見ていても、見る人の職業だとか心境によって見え方は異なります。

たとえば病気の患者さんがいるとすれば、医者が見る場合と家族が見る場合、あるいは患者さん本人とでその病気に対する見方が異なります。

注視点というのは、対象のどこに目をつけるかですね。一つの病気であっても原因や症状、治療法など、注目する点はたくさんあります。

視野は、対象を十分に捉えるために必要ですし、対象の周囲も見わたすこともときに大切です。病気は患者さんだけの問題なのか、その家族や勤め先への影響はどうか、など。

自分は視座から注視点に向かってどのような視線を投げかけているのか。その視線は一本にこだわっていないか。異なる視線は考えられないか。こういった考え方も大切です。

この四つのポイントを意識して、ものを見るということをするようにすると、日常の出来事に対してもいつもと違った見方が、読書については読み方ができると思います。

文学作品においては喜怒哀楽を形容詞で表すことは一般に避けられる傾向にあります。手あかのついた直接的な表現が共感を呼ばないことを作家は経験的に知っているからです。(P198)

いろいろな小説技法の本を読んでいると、このことがよく出てきます。つまり、「喜んだ」「怒った」「悲しんだ」「楽しかった」といったストレートに感情を表現する言葉は使わないようにしましょう、ということです。

そういえば、小学校などの夏休みの作文などは、こういったストレートな表現に走りがちですね。「海で泳いで楽しかった」とか「台風で天気が悪くて悲しかった」とか。

まあ、それはそれでいいと思います。自分がそのときどういう感情を持ったのかのしっかりした記録になります。

こういった感情をストレートに表現することは、必ずしもダメなことというわけではなく、読者にそれこそストレートに感情を伝えることができると思います。

しかし、文学作品ではそういったストレート表現ではなく、情景描写を駆使して登場人物の感情・心情を推し量らせることが重要なのですね。

そんなことをしたら、もしかして推し量りの足りない読者には登場人物の感情・心情が著者の意図したように感じられないこともあるかもしれません。

そして、こういった“推し量る力”は多くの読書経験を積むことや、実際の人生経験を積むことで養われていくものだと思います。

中学生のころに背伸びして読んだ文学作品がいまいちピンと来なかったけれども、大人になってから数十年振りに読み返してみると、なんと登場人物の心情が感じられることか、ということもよくあります。

読む技術を鍛えるためには、本を読むのみならず、日常の実践や思考からも鍛えられることが多いですね。

それは読書に対してだけではなく、日常の出来事をより深く感じて楽しむことにも繋がると思います。

一方、精読は、基本的に創造的な活動に向いています。創造のための読書は、読み手がじっくりと時間をかけて文章と向きあって進めるものです。頭のなかにあるスキーマに働きかけ、そのスキーマに肉づけをしたり、ときにはスキーマそのものを構築したり組み換えたりもします。(P231)

読書を続けていると、自分なりの読み方、読書スタイルや技術がついてきます。そういった“スキーマ”はさらに読書によって磨かれます。

とくに、ここで述べられているように“精読”は本をしっかりと読み込むこととともに、自分の読書スキーマに肉付けし、新たに構築したり組み換えたりしてくれる読み方です。

考えてみると、小中高校と学校で勉強してきた国語には、こういった読み方があったと思います。一つ一つの文章を大事にして、著者が何を考えているか、登場人物がどう感じたかをたどるような。

国語のテストもそんな感じで、これについては賛否両論あるかもしれませんが、少なくとも著者や登場人物の思考、感情を推し量る訓練にはなっていましたね。

最近、子供が使っている小学校の国語教科書を眺めることがありました。そこには、今こそ学びたいと思える文章の解釈があふれていました。

だからといって、そういう意気込みで今の児童生徒が国語を学ぶことは難しいかもしれません。後になって「国語ってこんな素晴らしいことを学ぶ科目だったんだ」と感慨しています。

ともかく、国語の授業なみに文章を精読することは、自分の読み方、スキーマを磨いてくれます。国語の授業はそういう読み方の技術を磨くものだったのですね。

言葉の使い方が違いますが、「親の心、子知らず」ですね。

表現を覚えることは他者の言葉で覚えることなのにたいし、内容を覚えることは自己の言葉で覚えることです。記憶は自分の頭に定着させる行為です。自分の頭のなかにはすでに記憶のネットワークができているわけですから、文章の内容を自分の言葉でそのネットワークにつなぎ止めたほうが安定的に保たれます。(P248)

ネットワークにつなぎ止めるためには、自分の言葉にすることが大切です。ネットワークを作っているのは自分の言葉だからです。

外界から取り入れて自分の言葉にしたものが、自分のネットワークにつながります。自分のネットワークにつながっていれば、それを表現して使うこともできますし、記憶として残り、いつか思い出すこともできるでしょう。

よく、勉強における最高の到達点は人に教えられるようになることだと言われます。

人に教えられるということは、学んだことを自分の頭の中のネットワークに組み込むことが出来ており、いつでも表現して使うことができる段階です。

ネットワークにつなぎとめて覚えるためにも、ノートなどに自分の言葉にして書き留めることも、有効だと思います。

文章理解は、文章を介した書き手と読み手の対話です。・・・読み手のがわから見た場合、書いてある内容に疑問を抱き、その答えに書き手がどのような解答を用意しているか文章そのものから推察し、その疑問を自ら答えるわけです。対話といってもつねに自問自答です。(P250)

対話とは、表現された言葉や他のことを使ってコミュニケーションをとることで、表面には現れない頭の中を推し量る作業ですね。

単なる言葉のやり取り、ときにはやり取りにさえなっていないものが会話かもしれません。もちろん、対話と会話の明確な境界があるわけではなく、会話とときに対話となり、対話ばっかりでも疲れますから、ときに会話あり、です。

読書は本と読者の対話ということです。しかし、本の著者との対話ではなく、本を読んでその内容に反応する自分との対話ですね。

本を読んで自分の中に起こる反応、つまり著者は何が言いたいのか、登場人物の感情・心情はどうなのか、自分はどう感じるのか。

それらを織り交ぜて自分なりの理解と解釈、あるいは共感を得る。そういった意識が、読書を深めてくれると思います。

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我々が普段なにげなく行っている「読む」という行動。一流アスリートが「走る」「跳ぶ」「投げる」といった、普通の人もなにげなく行っている動作をしっかり分析して磨き上げているように、「読む」についても一度、分析してみることが効果的です。

この本は、「読む」ことについて分析し、考えさせてくれます。そして、バラバラに動いていた読むチカラを見なおして揃え、サビを落として磨いてくれるような気がします。

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