批評の教室 北村紗衣 ちくま新書
「批評」というと、なんだか厳しく吟味してコメントを述べるような印象があります。批評には二種類あるそうです。肯定的批評と否定的批評とです。
もちろん、両者織り交ざることもあるでしょうが、肯定的批評というのは内容をポジティブに捉え、評価することで、否定的批評というのは、内容をネガティブに捉え、批判することです。
「批判」という言葉も、きつい意味で使われることが多いですが、これも“よくよく考えて判断する”という意味もあります。
カントの『純粋理性批判』なんかも、これにあたるでしょうか。ネガティブに見るというわけではなく、しっかり判断しましょうということ。
“評”というと、評価、評判、好評、不評などとともに、我々読書人にとっては書評という言葉が気になります。
当ブログも、いちおう書評ブログのような体をなしている、なそうとしているわけであり、私も書評については様々な読書法、アウトプット法などの本で勉強したつもりですし、しております。
その途中で出逢ったのがこの本でした。
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副題にある、「チョウのように読み、ハチのように書く」。
ひらひら、たゆたゆと様々な高さ、方向から文章を読みこなし、グサッ、ブスッと刺すように批評するということでしょうか。
グサッ、ブスッでは否定的批評になりそうですが、手練れ?のハチのように、読者の急所を狙い刺しするような、うまい書評を書きたいものです。
具体的には「精読する」「分析する」「書く」「コミュニティをつくる」といった大枠を基に、批評のための順序立った考え方、方法論が、この本には盛り込まれています。
こうなってくると、「作者は何を伝えたかったのか」みたいな問いの立て方をすると、固定できるのかもよく分からない「作者」を孤独な天才のような形でまつりあげてしまう方向に行きやすくなる危険があります。 それよりは、「作品が何を表現しているのか」みたいな問いを立てたほうがはるかに分析しやすくなります。(P62)
「問いを立てる」ことは、社会や世の中といった得体の知れないモノに対してとっかかり、つかみどころを作るということです。
これは何を言っているのだろう。これはどういうことだろう。これはどんな検査をすればいいだろう。どうすればもっと良くなるのだろう。
文章などの作品は、作者が伝えたかったものを表現しています。それでも、作者の頭の中をすべて出し切って表現できているわけではありません。
作品を媒体として、読者にその伝えたかったものが、作者の頭の中の考えの一部が伝わればいい、という程度だと思います。
また、作者が自分の考えをうまく文章に表現していたとしても、読者が作者の考えをそっくりそのまま自分に入れることはできません。ある程度、読者の力量にもよるところがあります。
そのズレがあるから、一つの作品を読んでも、人によって解釈が異なるのです。そして、その解釈の幅もまた、読書の面白さだと思います。
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「読書会」というものがあり、複数の人が、自分が読んだ本を紹介し合う場です。私は参加したことがありませんが、非常に魅力的に感じます。なぜなら、本は読者によって解釈も感想も違うからです。
たとえば一冊の本を複数人で読んできて、その解釈や感想を述べ合うのも、とても楽しいと思いますし、実際にそうしている読書会もあるでしょう。
一つの作品を複数人で読んで、自分の解釈や伝わってきたこと、知ったことを話してみると、けっこう他の人の解釈とは違うこともあると思います。自分の気づかなかったことも知ることができます。
もちろん自分の中でも、解釈の元となる知識や経験を蓄え、解釈の力量を備えることは大切です。でも、どうしても自分なりの切り口で作品を読んでしまいます。
そういったときに、読書会などで他人の意見を聞くと、自分には成し得なかった意外な切り口、解釈を聞くことができ、作品を多方角から幅広く読むことができるでしょう。
もちろん、読書会にかぎらず、他人の書評やレビューを読むことも、刺激になると思います。
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ここで述べられているように、読書では“作者の意図”を考えることに、あまり重点をおかなくてよいのではないでしょうか。それよりは、「作品が何を表現しているのか」を考えると、思考の自由度が上がると思います。
作者が何を言いたかったのか、作者の考えをなぞろう、というよりも、作品を通して作者の頭の中の一部が伝わってきたか、自分はどう考えたか、というところが、読書そして批評の面白いところだと思います。
例えば一人の小説家であっても、いくつかの作品で普遍的なテーマを表現することもあれば、作品ごとに異なるテーマを表現することもあるでしょう。
また、ときには作者が考えていないことを自分は感じていたり、自分が感じたテーマとは異なるテーマを、他人は感じたりしているかもしれません。
そういった意味でも、読書会に参加したり、他人の書評、感想を読んでみたりすることは、自分の感受性を広げることにつながると思います。
初心者が批評を書くときに大事なのは、メインの切り口をひとつにすることです。作品についてディスカッションをしている時は、いろいろなことが思い浮かびますが、作品としての批評を書く場合、全部を盛り込んではいけません。 軸なしにいろんなことを書くと、雑然としてまとまりがない感じになってしまいます。(P135)
自分の“軸”、“立場”を持つということは、批評するときのみならず、世の中を渡っていく上で大切なことだと思います。
この広い世の中、立場なくして見わたすことは難しく、軸なくして動き回ることは危険です。航海も自分の位置を精確に把握することが基本です。
自分の仕事でも趣味でも性格でもいいので、その立場からこの本をどう読むことができるのか、この本は自分の仕事や人生にどう関わってくるのか、どう影響を及ぼすのか、と考えると、個性に富んだ批評ができるのではないでしょうか。
また、何事にも切り口が必要です。切り口は鋭くなくても、鋭くてもいいのですが、切って見ないと自分はどう解釈できるか、内容が自分の生き方にどう影響するかが分かりません。
世の中には掴みどころのない、というか掴みどころの可能性がたくさんある物事にあふれています。どこを掴むか、つまり切り口をどうするかで、理解も解釈も解決も異なります。
その切り口を与えてくれるのも、自分の立場、軸だと思います。私は公務員だから、この作品についてはこの点がこう感じる、とか、私は農家だから、ここはこう思うとか。
私自身もどうも、なんでもかんでも医療にからめて批評しがちになります。でも、それもそれでいいんですよ、きっと。
自分の立場、軸を見据えて、それを基に考える点こそが、自分のオリジナリティ豊かな批評につなげるポイントなのではないかと思います。
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批評というものは、ある作品を読んだときに、自分の立場からはこう感じる、こう思うと述べることだと思います。
人によって立場や境遇が違うので、同じ作品をみても批評は異なります。その差異を分かち合ったり、自分の足しにすることにより、人間はぜんたいで進歩していくのではないでしょうか。