本との別れ

今日、100冊以上の本と別れました。

まあ、ありていに言えば売却したのです。購入した時の100分の1か、それ以下の値段となってしまいます。

売って元をとるものではありません、本は。売ってしまった本との出会いによって、きっと私の中でなにかが動いた、変わったことを信じます。

今回手放した本は、手放していいのではないかと思った本であり、手放したくない本ではありません。これは手放せない、という本もたくさんあります。

それでも縁あって出会った大切な本なので、記録上も今日の日付を記しておきます。

以前も書きましたが、私は本を購入した日付、読了した日付を記録しております。そこに、今回からは手放した日付も付けたわけです。

本を読んで、「ここは」と思った部分には付箋を付けています。手放すにあたり付箋は、その部分をよく読み返して剥がしました。貼ったままでは店の人も困るでしょうから。

付箋部は出来るだけ書き出して、このブログにも引用として使っています。でもすべての本の付箋部を書出しできているわけではありません。

今回手放した本は、付箋部を書き出していない本がほとんどですので、できれば書き出してから手放したいところですが、数が多いのでそうもいきません。

また、今見返してみると、そうでもないところに付箋を貼っている気がすることもあります。まあ、当時は付箋を貼るべくして貼ったのでしょうが。

最近、ワープロソフトで音声入力を導入したので、今後付箋を剥がすときは、その部分を音声入力で書き出ししてから、剥がそうかと思っています。

さて、売ってしまった本。これらは私に何を残してくれたのでしょうか? 売ってしまおうと思ったくらいですから、記録上の星の数(ランキングのようなもの)も、多いものはありません。

しかし、書籍の出版も困難なこの時代、著者にとっては自分の渾身の力と経験と思考をもって世に出した本でしょう。一冊もおろそかに扱えるものではありません。

一方で、世には本が次々に出てきます。数多く本を読んでいると、同じようなことを書いている本もたくさんありますが、中にはキラリと光る一冊との出会いも、まれにあります。

数多くの本を読んでいるうちに、そういった本を見る目も、自分なりには鍛えられているのではないかと思います。

このような「本を見る目」を鍛えてくれた、あるいは本を読む訓練をしてくれたという点では、内容的につまらない(失礼!)本でも、自分の足しになったと感じます。

例えば食べ物にしても、必要な栄養素やビタミンが十分摂れれば野菜ジュースやサプリメントだけでいいのでしょうか。

いや、ゴボウやキャベツの硬い線維を噛むことが、食物繊維という栄養以外にも、アゴを鍛え歯茎の血流を良くし、形状や食感の豊かさは脳への良い刺激になるのでしょう。

たとえくだらない(失礼!)本でも、内容としてはたいしたことを学ぶことができなくても、読む力を鍛える手助けはしてくれたのではないかと思います。

これからも、数多くの様々な本が自分を通っていくと思います。どのように本と付きあってゆくかも考えなければなりません。

我が家の本棚も書斎もスペースに限りがあります。もちろん物置やどこかにしまっておくこともできるでしょうが、それは本に対する気持ち・姿勢としてどうでしょうか。

死蔵という問題があります。本は読まれるために世に出てきました。大事に大事にしまっておかれて日の目どころか人の目も見ないようでは、本としての生き方ができていないと思います。

これからどんどん、当り外れはあったとしても本を購入し、読んでいこうという気持ちは、まったくもって変わりませんので、ある程度自分を通過していく本もあるのだと自覚します。

そういった本は、世に返して、また誰かの目にとまることを願うのが、本好きとして、一期一会をはたした本に対する、せめてもの行いだと思います。

さて、100冊手放したとして、記録上購入冊数はその十数倍ありますので、ひきつづきお別れの本を厳選して、世に戻そうと思います。

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