十牛図 ほんとうの幸せの旅 青山俊董 春秋社
あけまして、おめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
*
今年は丑(うし)年です。それでというわけでもありませんが、今年の初めは牛に関する本のご紹介をさせていただきます。
とはいっても、この本は仏教の、とくに禅宗の臨済宗でとりあげられることの多い『十牛図』に関する本です。
十牛図(じゅうぎゅうず)は真の自己、あるいは「悟り」に至る道のりを10枚の絵と詩で著したものです。
悟りを「牛」に、悟りを求める人を「牧人」にたとえ、「悟り」を得る道のり、得てからの行動などが、10枚の絵と詩だけで、説明文も無く表現されています。
これは、「悟り」だけではなく、我々の仕事の上達、技術の修得や、人間としての成長などにもつながる話だと思います。
説明文の無いこの十牛図は、口伝や様々な解説書、この本のような書物によって、さまざまな解釈はされてきたのだと思います。
しかし、“「絵」で伝える”という点に、私はキラリと光るポイントを感じたような気がします。
これは「これこれこうすると悟りに到達できますよ」なんていうハウツー的な文章ではなく、一見なんだかよく分からない「絵」で伝えようとしているのです。個人個人によって、いかようにも解釈しやすい「絵」を並べているのです。
そうすることによって、どんな人でも自分の境遇や周囲の状況に応じて悟りへのプロセスを考えることが可能となっているのではないか、と感じました。
まあ、識字率のこともあって、一般の人にも分かりやすくしたのかもしれませんし、ちょっと穿った考え方かもしれませんが。
(絵だけで表して、いかようにも解釈できないようにしているレゴやイケアの説明書も、たいしたもんだと思います)
内容では、味のある十牛図とともに、詩の大意や短歌、仏教説話から様々な偉人の言葉の引用もあり、たいへん勉強になります。
今後も成長を続けていくみなさんの新年スタートに、読んでいただくにふさわしい一冊だと思います。
第一図 尋牛―牛を尋ね求める
まず自分がやる気をおこす、火がつくことが先決です。
心に思い、求め、願っているだけでは始まりません。善いことならやる、悪いことならやめるという実践に移すこと。これが「尋牛」です。
(P31)
「悟り」という目標ができたら、それを求める第一歩を踏み出す。まず大事な一歩です。しかし、個人的にはまずここでつまずいていることが多いと感じます。
仕事も同じであり、やるべき課題や目標が定まったら、まずちょっとでもとりかかることが大切です。「千里の道も一歩から」です。
文章をつくるにしても、箇条書きで並べてみるとか、大まかな流れを考えるとかできます。書類をつくるにしても、フォーマットをダウンロードするとか。一項目だけ書いてみるとか。
第二図 見跡―足跡を見つける
宗教とまではゆかなくても、世の生業の世界や稽古事の世界でも同様に、よき師を択び得たかどうかで、そこに開かれる世界は大きくわかれてゆきます。
(P44)
目標を見据えて探し始めます。目標にたどり着くためには、先人のたどった道をたどるのもいでしょう。
また、実際に自分より前からたどっている人を見つけて、いろいろ教えてもらうのがいいでしょう。
それこそが、師であり、職場では先輩や上司にあたると思います。目標を同じくする先輩、上司が見つかれば、ここぞとばかりついていき、利用しましょう。
第三図 見牛―牛と出会う
自分の小さな思いのとどかない、はるかなる働きによって生かされている私であることへの目覚めや出会いを経験すること。これが第三の「見牛」の段階なのです。
(P56)
思い返せば、自分が今ここにこうやっていられるのにも、様々な人々の助けがあってのことです。
両親はもちろん、家族や近所の人、学校関係や、その他のコミュニティの人々など、多くの人が関わって今の自分があります。
そして、今のこのような人間としての自分を作り上げてくれたのも、そういった人間たちです。
なんとなくすべてが良いといえる人間ではないかもしれません、自分は。それでも、なにかしら今度はこの自分という人間が、他の人間にできることもあるはずです。
自分がこの人間社会に対して何ができるかという役割を見出し、それに邁進していく道を知ることが、「悟り」へ通じる道を見つけたということではないでしょうか。
第四図 得牛―牛をとらえる
・・・時間の使い方は生命の使い方です。一時間をどう使うかということは、一時間の生命をどう使うかということです。世に雑用はありません。用を雑にしたとき雑用が生まれるのです」。
(P76)
自分の役割や進むべき道を見つけるといっても、探して調べて情報を集めて的確な正しい道をみつけるというわけでもないでしょう。
これもいつも言っておりますが、ある程度の思い切りで道を選ぶことも必要です。進学先、就職先など、人生の選択肢は同様です。
はじめてみたら、雑用ばかりでつまらなかった。自分が思い描いていた仕事、勉強ではなかった、ということもあるでしょう。
しかし、そこは考え方次第です。上に引用された元ノートルダム清心女子大学学長渡辺和子先生の言葉のように、自分に与えられた時間をどのように使うかは、自分の生命をどのように使うかということです。
雑用については、以前も書かせていただきました。『雑用について』をご参照ください。
どんな仕事や勉強でも、気持ち次第でなにかしらのプラスにはなります。仕事や勉強を雑にすることが、雑用、雑学になってしまうのです。
「雑学」は、決して聞こえの悪い言葉ではありませんが、自分の仕事や専門以外の雑多な、ちょっと直接は役に立たない学問ととらえられがちです。
しかし、学問では専門を鍛えることも必要ですが、雑学的な教養も広め、専門の裾野を延ばしてしっかりした土台とすることも、いいことだと思っています。
第五図 牧牛―牛をかいならす
・・・初めは師や友の力を借り、導かれてロウを溶かし、火をともし、歩みゆくべき方向を指示していただかねばなりませんが、あとは自らが燃えつづけることで歩んでゆかねばならないのです。
(P85)
仕事の道でも、勉強の道でも、厳しいことは待っています。これまでできなかったことを覚えていくのですから、当然です。
そこにはちょっとした火が、つまり情熱が必要だと思います。初めは師である先輩や上司、あるいは友や同僚からのはげましなどで情熱を支えてもらいます。
歩むべき道が照らされて、見えてきたら、あとは徐々に自分の中に情熱の火をともし、自らの足元を照らしながら、暗いながらも「目標」を導きの星として、歩んでいきましょう。
第六図 騎牛帰家―牛に乗って家に帰る
牛の手綱を片時も手放さず、念々に心をひきしめて、我と我が心を牧しつづけることで、手綱など持たなくても、その背に乗って、花に遊び月にうそぶいていても、牛は自然に、歩むべき道を歩むべきあり方で進むようになります。
(P95)
ある程度、仕事や勉強も進んで、身体に沁み込んできます。良い慣れも得られます。初めは意識しなければできなかったことも、次第に無意識にできるようになります。
仕事のなかに遊びを覚え、様々な工夫をこらしてみるとか、新たな道を発見し、そちらに進んでみることもできるでしょう。
手綱を離して牛から転落しないように。余裕をこいての失敗には、くれぐれも気をつけて。
第七図 忘牛在人―牛は消えて人が在る
・・・一度気づけばよいというものではない。その時の持ちあわせの貧しい受け皿の範囲の気づきにすぎないのだから、無限にそれを棄ててゆく。修業は過去形ではなく、つねに「現在進行形」、「今、どうじゃ」と自らに問いつづけながら進んでゆくべきものであることを再確認しておきたい。
(P114)
「この人、あの上司、何度も同じことを言うなあ」と思うことがあります。「また同じこと言ってるよ」などと嫌になってしまうこともあります。
しかし、ここはちょっと謙虚に聴くといいのかなと思い直しました。聴くたびに、言っている方は変わらないとしても、少なくともこちらは以前とは変わっているのだから。
同じ話でも、おそらくちょっとは受け取り方も違うし、「言葉」「知識」をいただいたあとの、こちらの内での加工、つまり「知恵」へ昇華するための自前の知識、経験との融合、解釈およびその技量が以前とは違うわけですから。
そう念じて、同じ話と思っても、ふんふんと聞いておくこと。それも一つの「謙虚さ」だと思います。
私の上司も同じことをお話になることが多く、「その話は前も聞いたよ」と感じることもよくあります。
しかしながら、上司は変わらずとも(ちょっとは変わっているのかもしれませんが)、自分としては以前その話を聞いたときとは違った自分であると思います。思いたいです。
「今の自分は以前の自分と違って、同じ話を聞いてもなにか感じるところに違いはないか?」などと、いくぶん大げさな受け止め方、謙虚さでお話を聞きたいと思いました。
第八図 人牛俱忘―人も牛もみな消える
私どもが、ここに命をいただいている背景には、気付かないけれど、天地総力あげてのまことに不可思議な働きを一心にいただいて、この命があるということです。この働きを象徴して仏(法身仏)と呼ぶのです。
(P129)
すべてのものに仏が宿るというのは、仏教の考え方の一つです。いろいろなものの働きの中に、自分は生きています。なにはともあれ、何事にも感謝の気持ちで臨むことだと思います。
第八図では牛や牧人はおろか風景も描かれず、「円相」と言われる丸い枠だけになっています。
私たちはどうしても、自分を中心に考えてしまいがちです。世の中、身の回りで起こることが、自分にとってどうか、と。
しかし、そんな自分という人間を含めた世の中、世界のなかで、自分はどのような位置にいるのか、この世でどのような役割をしていけるのか、と、少し視点を変えることも大切です。
この図では、自分や周囲、背景もいったん忘れて、細かいことはいったん忘れて、でも世界はいろいろなものがそれぞれの役割を果たして、うまくいっているということを、表しているのかもしれません。
仕事においては、自分の仕事を取り囲む、様々な人々、施設、ほかのスタッフはもちろん、掃除の人や物品供給の人など、もちろん顧客や患者さんも含めた円相を思ってみるのもいいかもしれません。
第九図 返本還源―本源へ還る
修行という言葉や意識さえ雑音であり、病むときは病気と一つになってただ病む。台所の番になったら、「台所も修業」などという意識さえ妄想だと、それも拭い去って、ただ台所の仕事一枚に打ち込む。これが「空即是色」の「空」も消え去り、「色即色」と還ってきた生きざまということではないでしょうか。
(P144)
いろいろ考えますが、結局は地に足ついて日々を過ごすのは職場であり、家庭です。職場も、ときには家庭も人生のタスクを行う修業の場となります。
しかし、修業であると同時に、人生を楽しむ場でもあります。これは修行、これは娯楽、これは家族サービス、これは自分のため、などと細かく考えずに、ただ今していることに集中して、打ち込むのがいいのではないでしょうか。
そういった姿勢が、人生を楽しみつつ仕事や自分の役割を果たす良い姿勢だと思いますし、おのずと結果はついてきます。
第十図 入鄽垂手―街に入り手をさしのべる
神通力だの霊能だの、そんな手段を用いなくても、その方がそこにおられるというだけで、あたり一面に花が開いたように、人々の心に喜びの花を咲かせてしまうというのです。日本の昔ばなしの「花咲かじいさん」の物語の心はこれであったなとうなずいたことです。
(P153)
昔話の解釈は、人それぞれでいいと思います。作者の本当の意図など、分りません。古典というものはそういうものです。
イソップの話も、もしかしてイソップはそんな教訓めいた、道徳めいた話をしたかったのではなく、単に面白い話を書いたのかもしれません(もちろん、「寓話」として人間社会を風刺する教訓めいた話をねらったのかもしれませんが)。
でも、遠く離れた我々の時代においても、生き方に対しての、なにかしら喩えとして当てはまり、役に立つ解釈ができるものが、今まで残ってきた古典というものです。
さあ、ある程度の知識や技術が身についたら、今度は同じように目標の達成を目指す後輩を育てましょう。
具体的な指導や、知識の伝授を以ってではなくても(もちろんそういった能力も身に付けてですが)、その場にいるだけで、あるいはちょっとした言葉がけだけで、皆が安心して、精進しようという気持ちになれる様な、指導者になれればと思います。
*****
今年の初めは、仏教の「十牛図」についての本を紹介させていただきました。
仏教は心の科学として、人間が生きていくうえでの、“じょうずな”「心」の使い方を教えてくれます。
「心」は感情や欲望、本能などを内包し、身体と同様に動物にもつながる、制御の難しい機能です。
しかし人間には、それら心と身体を制御するために、「理性」、「精神」、あるいは「霊性」などと呼ばれるものが存在します。
心の性質を知り、制御法を知り、精神を高めることで、人間として“じょうずな”生き方ができるのが良いと思います。
そのためにも、方法論として仏教などの宗教を、毛嫌いせずに勉強してみるのも良いのではないでしょうか。