音楽ってなんだろう? 池辺晋一郎 平凡社
「人間ならば音楽はできなければならない」などと吹聴していると、困った目で見られるかもしれません。
しかし、音楽は人間が人間らしく生きるために必要なものだと思います。
病院では、学生サークルの合奏団による病院コンサートが行われます。私もかつては参加して患者さんたちに音楽に触れていただくことができました。
とかく、入院時の説明だとか、検査の説明だとか、インフォームドコンセントだとか、「言葉」重視、左脳重視になりがちな医療の場ですが、ときには音楽に触れて右脳も涵養していただくことが大切だと思っています。
今回ご紹介する本は、音楽とはどういうものかということを述べている本です。芸術の役割、そして芸術の一つとしての音楽の特徴について簡単な対話形式で書かれています。
著者の池辺晋一郎氏は作曲家であり、音楽番組で解説などもされていて、みなさんもテレビや雑誌などで目にしたことがあるのではないでしょうか。
楽曲を分かりやすく、ときにユーモアも交えて解説されているところを、私もテレビで拝見したことがあります。この本でも同じように、音楽というものを楽しく理解できるように話を進めてくださっています。
音楽というものが人間にとってどのようなものなのかを、その歴史や楽しみ方も含めて勉強できる一冊です。
われわれは自分たちのことを健常者といい、目が見えなかったり、どこか不自由な人のことを「マイナス」と考えますが、それは違うんじゃないか、といこと。もしかしたら、ぼくらにもたくさんのたりない部分があって、それが何かわからないだけなのかもしれない。
(P18)
辻井伸行さんという、目が見えないながらも凄まじい活躍をしているピアニストがいます。みなさんも本やテレビなどで見たり聞いたりしたことがあるでしょう。
私も最近、彼のCDを購入して聴いてみました。非常に粒のそろった音をきれいに並べて、こまかいメロディーもていねいに届いてきます。
また、たとえば16分音符4つといった短い音の組み合わせが、一つの「音のかたまり」に聞こえるような、なんだかピアノという楽器から、フワッとした音のかたまりを次々に発生させているような感じがしました。
よく、目の見えない人は肌で風を感じ、音を聴くことによって、通行人や側道の存在を感じることができるといわれます。
われわれは、いわゆる五感が人並みに発達していることが多いため、人並みの世界の感じ方ができるだけです。しかし、ある感覚が閉ざされると、その他の感覚がそれを補おうとしてか、発達することは予想できます。
われわれは今働いている五感をもってしか、この世界を感じることはできません。辻井さんのようなピアニストは、われわれが感じることのできない音の感覚や肌感覚を曲に吹き込んでいるのかもしれません。それを、われわれは部分的ながら、感じさせてもらっているのかもしれません。
メッセージがはっきりしているかどうか、だと思います。メッセージといってもいろいろだけれど、一つの曲に、言葉に置き換えられない茫漠とした色彩が感じられるとか、広い空が見えてくるとか・・・そうした何かを示唆してくれるものが名曲といえるんじゃないか。
(P32)
「芸術はよく分からない」「芸術の理解は難しい」とはよく言われます。以前も書きましたが、言葉などの文字情報はダイレクトに「メッセージ」をこちらに提示しています。(「文字情報の理解と芸術の理解」)
しかし、絵画や彫像、音楽、書などは、表題などで分かることもありますが、一見なにを表現したいのか、何が「メッセージ」なのか分からないこともあります。
音楽のなかでも名曲というのは、「メッセージ」がはっきりしているものということです。そして、その「メッセージ」が、比較的どんな時代でもどんな人に対しても共通することを訴えているのです。たとえば「悲愴」や「歓喜」などの感情、「祖国」や「信仰」といった大事なことのように。
ただ、感じ方は人それぞれであり、自分の知識や経験や、それらに基づく判断などを織り交ぜて解釈すればいいのだと思います。
あらゆる芸術というのはそうやって、何かを喚起する役割と機能をもっていると思います。文学も演劇もそうでしょう。今この瞬間を生きている人間の五体の感覚をぐゎっと広げて、その人の個人史、未来、周囲など、その人がもっている領域すべてに関わらせてくれるのが芸術です。
(P34)
さらに、各個人のこれまでの、今の、そしてこれからの人生に思いを馳せさせてくれるような音楽、今の自分の心情や境遇にマッチして、共感してくれたり、あるいは反省させてくれたりするような音楽が、名曲なのでしょう。
「熱いですね」「そうですね」、「寒いですね」「そうですね」と同じように、芸術の面白さというのは人類の共通感覚を「共通だ」と認識できる瞬間なんですね。
(P44)
そして、「音楽は共通言語」と言われるように、ベートーヴェンの交響曲第9番「歓喜の歌」を聴くと、世界中のどんな人も「歓喜」を感じたり、「生きる喜び」を感じたりします。
日本でも年末あたりに盛んに演奏されるのは、まあもともとの発端は営業活動だったのかもしれませんが、それでも多くの日本人にとって「これを聴くと今年の自分をねぎらい、来年も頑張ろうという気持ちが湧いてくる」といったような心情が出てくるからではないでしょうか。
オスカー・ワイルドのいう「芸術の同心円」に関係するでしょう。真ん中にいくほど純度が高く、外側にいくほど不順になる。音楽はもっとも中心にあって、いちばん外側が文学。
(P57)
文学は、言葉による芸術作品です。日常的なコミュニケーション手段としての分かりやすい言葉の使い方ではなく、言葉を使うことによって、「人間普遍的な心情や考え方」を浮かび上がらせようという作品です。
そういった「心情や考え方」を読み取るには、少し訓練が必要かもしれません。それに対して音楽は、言葉といういささか難しい手段を通さないからでしょうか、ダイレクトに感情に訴えると思います。
そういった意味でも、芸術のなかでもその「メッセージ」を受けとる点に関しては、比較的受け取りやすい「純度が高い」芸術なのかもしれません。
革命的だったのはベートーヴェンです。「この曲で何を主張すべきか」と自身の哲学を封じ込めたような曲を書いたのは彼が最初でしょう。
(P77)
ベートーヴェンの時代にはフランス革命などが起きており、徐々に市民が「モノを言う」時代へと移り変わっていきました。
それまでの音楽は貴族の娯楽といったような宮廷を彩るものでしたが、ベートーヴェンは音楽を通して「メッセージ」を表現しようとしました。
音楽を、「メッセージを伝える芸術」に高めたのが、彼だったのです。その後の音楽は、人生の喜怒哀楽や祖国愛など、メッセージ性の高いものになっていきました、
われわれは、さまざまな曲を聴くと、その曲が何を訴えたいのかなどと自然に考えますが、音楽をもって「メッセージ」を伝えるということを始めたのがベートーヴェンだったのです。
私も、音楽というのは昔からなにかメッセージを伝える芸術なのだと思っていました。
しかし、昔からそうだったわけではなく、彼の影響によるところが大きかったのですね。
音楽を単なる娯楽から、メッセージを伝える媒体とした。楽聖と称えられるわけです。
文化として日本に伝わってくるものは多い。ところが日本もさらに東に伝えたいと思っても、東は海。・・・ならば伝えるかわりに下へ深く掘るしかない。ゆえになんでも深くなる。
(P98)
面白い考えだと思います。『禅と日本文化』の紹介でも書きましたが、何でも「道」として、強い精神性を付与するのは日本人の得意とするところでしょう。
禅に端を発する思想によるところが大きいと思いますが、文化の最終到着地としての日本という国の位置を考えると、こういった考えもアリだと思います。
逆にいうと、こういう地理条件だったからこそ、たんなる横流しではなく付加価値をつけて世界に発信するという「加工貿易」のようなことも生まれたのかもしれません。
作曲に限らず、自分の表現を他人が評価しなくては、われわれの世界はどうしようもない。音楽を含め芸術をいうのはすべて、発想があり、創作があり、作品があり、最終的には伝達というプロセスがあります。伝達がない芸術は芸術じゃないですよね。
(P136)
アウトプットが大事です。読書にしても同様であり、読書で得た知識あるいは感動を自分の内に溜め込んでいるだけでは、あまり面白くありません。
それを、そのまま出したのでは元の本の言っていることと変わりませんから、自分というフィルターを通して、ちょっと加工して世に出してみるのが良いでしょう。
たとえば友人に話してみたり、ブログなどに書いてみたり。
絵を描いたり小説を書いたりするのと同じ、作曲は自分の内なるものを吐き出すことです。内なるものとは、蓄積したものです。その蓄積をつくっておけと言いたいんです。
(P187)
音楽をするにしても、その豊かな表現力や、表現しようとする「メッセージ」を作るには、バックグラウンドとなるものが必要です。
それが、音楽に限らない広い知識や経験であり、そういったものから自分の中に作り上げられてきた「自分の内なるもの」なのです。
それは個性的であり、表現してみると共感してくれる人もいるでしょうが、違和感を覚える人もいるかもしれません。ある人にとっては、人生を一歩進める刺激となるかもしれません。
絵画、彫像、文学など芸術は、そういった個人が秘めている「自分の内なるもの」を表現して、他の人と共有することによって、人間ぜんたいの文化を高めるものだと思います。
ことによっては、「芸術は役に立たない」などということを言う人もいます。しかし、科学の発展や技術の開発など直に人間生活に役立つものではなくても、生活そのものの舞台や土台を飾るような役割をしているのです。