自分を熱くする 横山信弘 フォレスト出版
自分は、あまり「熱く」ない人間だと思うので、ときどき「熱い」人をみると、「熱い」のもいいなーと感じることがある。
何回か書いたように、「情熱」は非常に大切なものである。仕事についても、勉強についても、生き方についても。
(『理論と情熱の関係』、『アイディアと情熱は自分の「内」に求めるのだ』、『教育・勉強と「情熱」』)
では、その「熱さ」「情熱」といったものは、どういうものなのか、どのようにして発生させ、どのようにして維持していくのか、というのを詳しく書いたのが、本書である。
著者は企業コンサルタントであり、そのモットーは「目標を『絶対達成』させる」ことである。数多くのセミナーや講演、そして書籍の出版により、多くの企業を支援した実績を持つ。
「熱い人」の分類、「熱意」「情熱」「熱量」の正体といった、一見あやふやながら熱そうな概念を丁寧に解説し、ハートに火をつけ、その熱を維持する方法論を述べている。
ちょっと「熱」が足りないかなと感じている人は、ぜひ読んでいただきたい。
それもともかくながら、「情熱」は自然に生まれるものではなく、一見ネガティブな印象を受けるある程度の外的な要素(「強制」や「義務」など)も必要だということに、「なるほど!」と腹落ちした。
印象に残った二節を引用し、長々とした私見を加えさせていただく。
このように「強制」とか「義務」といった外発的な動機づけがきっかけで、やっているうちに興味を持ち、自らモチベーションを高めるようになることは多くあります。
(P92)
「やりたいこと」とか、「好きなこと」は関係が無く、何らかのきっかけでやならくてはならなくなったことがあれば、一所懸命にやりましょう。そのために「気合い」をいれるのです。そして「限界だ」と思えるほどに徹底してやり、その事柄を探求するのです。
(P97)
ある程度の「強制」「義務」も必要なのである。教育ではある程度、「詰め込み」が必要だと思う。仕事ではある程度、「雑用」をすることが必要だと思う。
「詰め込み」も「雑用」もイヤな言葉である。なぜイヤな感じがするのか。
「詰め込み」は、受動的に他からの力によって無理やり覚えさせられている気がする。「雑用」は、なんだか役に立つのか分からない仕事を、下っ端だからしょうがなくやらされているような気がする。
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では、そう思っているのはだれか。そういった教育を受け、仕事をさせられている当の本人は、そう感じているのだろうか。
小学生、中学生、高校生は「こんな詰め込み教育いやだー」と感じているだろうか。もちろん、勉強によってゲームをする時間が削減され、イヤだと感じている子どもはいるかもしれない。
学校が終わっても塾に通い、友達と遊ぶひまもなく一日が終わる小中学生もあるかもしれない。
そういった子どもたちは、自分が「詰め込み」教育を受けていると感じているだろうか。
もちろん中には感じている児童・学生もいるかもしれない。しかし、そういう人は、もっと価値のある勉強を知っているのではないか。
社会人ともなると、これまでの学生生活やアルバイトなどで、ある程度「詰め込み」のような教育を経験してきたり、「雑用」のような仕事をしたりしてきただろう。
そういった経験を踏まえて、読書などといったよりクリエイティブと感じられる勉強や、後輩の指導など自律的に自分である程度考えてやってきた仕事もあるだろう。
そうなってくると、あまりクリエイティブに感じられないいわゆる「雑用」は、やはり「雑用」と感じられるかもしれない。
しかし、仕事をはじめたばかりの頃は、「雑用」こそが仕事を覚える一歩一歩となっていることも確かである。そういった自分、彼らは自分にまかされている「雑用」を、「雑用」と感じているだろうか。
あるいは医者になりたての研修医は、日々押し付けられる(?)「雑用」を、雑用と感じるだろうか。
こんなことでも仕事として与えてもらえる喜びのようなものを、一瞬でも感じなかっただろうか。(少し押しつけがましい考え方かもしれません。あしからず)
かえって何もすることなく病棟でボーッとしていたり、手術を見学していたりすることが、苦痛であり、自分ができることであれば、ささいな「雑用」でもどんどんやらせてもらいたい、などと思わなかっただろうか。
自分の経験上、学生実習で病院を廻っているときは、放っておかれるよりは何かしらでも経験させてほしかったし、研修医のときには、何かしらでも処置や、たとえ「雑用」でもさせてほしかった、と感じた気がする。
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そう、「雑用」と感じているのは、むしろ、それをお願いする立場の者ではないのだろうか。職場では上司や先輩が、自分たちが部下や後輩になにか頼む時に、「雑用」と感じているのではないか。
教育の場では教師や教育関連の人々、あるいは親もそうかもしれない。児童・学生に次々に新しいことを教え込むことを、「詰め込み」と感じているのではないか。
もしかしたら少し、部下・後輩に対するうしろめたさ、児童・学生に対するうしろめたさを感じて、上司・先輩は部下・後輩にしてもらう仕事を「雑用」と呼び、教育者や親は「詰め込み」と呼ぶのではないか。
それを「雑用」なんて言われて頼まれるものだから、下も逆にはなから「雑用」というレッテルをはって対応してしま、そうでなければ得られた面白みを感じられずに、ただ淡々とこなすことになってしまうのではないだろうか。
児童・学生も、自分たちが受けている教育が「詰め込み」だなんて言われているから、そういうネガティブなものだと感じて、本当はこの成長期にどんどん知識を蓄えることが必要なのに、別の道を模索してしまう。
「本当に自分の好きなことはなんだろう」、「本当に自分に合った仕事はなんだろう」などと、あらぬ方向に向かってしまうことを、引き起こしているのではないだろうか。
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これは全くの私見であり、上から目線の言いぐさかもしれない。「どうせそんなに『雑用』をしてない人には分かりませんよー」などと批判されるかもしれない。
本当に、日々の「雑用」で疲弊している人もいると思う。大学進学など光ある未来を夢見て、苦しみながら「詰め込み」教育を脳みそに流している人もいると思う。
しかし君たち、少し考え方を変えてもいいかもしれない。エライ人が、大人たちが、「雑用」「詰め込み」なんて言って悪かった。
そんな風に呼ばれている勉強、仕事はつまらなく感じてもおかしくない。しかし、詰め込んだ事柄、日々こなす雑用のなかから、「知識」「技術」そして「知恵」や「情熱」は生まれてくるのだ。
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ある程度年がいってから「雑用」仕事が多いのも、ちょっと大変ですがね・・・。そんなこと言っているのは、まだまだ修業が足らない証拠である。
ちょっとは「気合い」を入れて、目の前の仕事をしていきたいと思う。