答えはないけど、目標はある

医療者が語る答えなき世界―「いのちの守り人」の人類学 磯野真穂 ちくま新書

人類学者という、医療者側でも患者・家族側でもない“第三の目”から医療を俯瞰的に見た良書です。

医療を見る目、つまり視座や視点にはさまざまあるでしょう。多くの患者さんが自分を通して医療を体験し、見ていると思います。医療を提供する側の医療者もまた、それぞれの立場から自分達が行っている医療を見ています。

あるいは患者さんの家族や周辺の人々も、患者さんとの関係を通して医療を見ているでしょう。また、報道や医療政策の立場から、あるいは医学はもちろん、経済学、心理学、哲学などの学問諸分野、宗教からの視点もあります。

この本では、人類学者の視点で、主に医療者と患者やその家族だけで行われている医療について、人類学というメガネを通してみています。

さて、人類学とはどのような学問でしょうか。

人類学は,「生物としてのヒト」を総合的に研究する学問で,ヒトとは何かを科学的に偏りなく理解し,実証的で妥当性のある人間観を確立することを目標としています。言い換えますと,人間自身について科学的な根拠に基づいた認識を得ることが人類学研究の最終的な目的となっています。それには下記の3つの観点が重要となります。

    人類の本質(他の生物種との共通性と異質性,人類の独自性・特質)

    人類の変異(集団や個体ごとの違い・ばらつき,およびその意味)

    人類の由来(起源と進化・変遷)

(日本人類学会ホームページより)

この本は、「いのちの守り人」として医療に関わるヒトである、医者や看護師などの医療者について、どのような性質があるのか、どのような特徴があるのか、どのような行動や考え方をするのかを科学的根拠に基づき追究するものと言えるでしょう。

医療者、つまり医師や薬剤師、看護師、リハビリスタッフから医療事務などなど、医療に関わる方々にはぜひとも一読しておいていただきたい一冊です。

そして、そういった医療者に取り囲まれて過ごした経験のある方、これから過ごす可能性のある方々にも読んでほしいと思います。

医療者がどのような気持ちで医療を行っているのか、医療を受ける自分たちはどう考えていけばいいのか、気付きの多い読書になることは間違いありません。

私たちは戸惑い、その行く末を医療に任せようとするが、それまで何のかかわりもなかった現場の医療者が命の行く末を決断し、実行することは制度的にも、倫理的にも容易なことではない。その結果、医療者も家族も、死という生物的な状態が自分の選択で引き起こされることをおそれ、死なせないための医療措置が施され、その措置をつつがなく行うために、抑制が行われることとなる。しかしそうやって決断を先送りにした今その時にも、そのための医療費を誰かが肩代わりしていることは考えには上らない。(P56)

治る病気がある一方で治らない病気があります。肺炎やケガなど抗生剤や手術などによってすっかり元通りに回復することもある一方で、糖尿病や高血圧、心不全などある程度“付き合って”いかなくてはならない病気もあります。

脳卒中のように後遺症が残り、それまでの人生とは異なる人生に切り替えられることもあり、また“がん”のように治ることもあれば命を考えることが必要になる病気もあります。

そういった病気においては、医療者としてはエビデンス(科学的根拠)に基づいた治療方針や選択肢を提示することはできます。しかし、それを選択するのは患者さんとその家族です。

そうは言っても、患者さんも家族も医学的知識が必ずしもあるわけではなく、急に考える、選ぶ状況になっても困るでしょう。

延命治療をするかしないか、鼻から管をいれて経管栄養をするかしないか、すればしたでその管を抜いてしまわないように手を抑制してもいいかどうか・・・。

安全管理の面や医療経済の面から統計的にみれば、あまりに俯瞰的過ぎて患者さん個人が見えなくなってしまうかもしれません。

そして、そのような場面での選択肢も、いわゆる“答えの無い問い”であり、どれを選べば正解ということではありません。ただただ患者さんにとって最善になる方向を目指したいというだけです。

患者さん本人や家族に対しては、その旨をお話しして、医療者としてもただ選択肢を提示して「さあ、選べ」ではなく、患者さんや家族の考え方・生き方を尊重したうえで、「自分ではこう思う」と選択に参加してもいいのかもしれません。

たしかに、医療者は医療の提供に全力を尽くしており、患者や家族は患者の病気が治ることを一心に考えています。

医療もサービスの提供という面では対価が発生し、それが医療費としてかかるとしても、医療者も患者も目下の「いのち」に集中しており、お金のことは二の次でしょう。

そこは、医療事務や経営担当、あるいは医療経済学者という目で専門的にみていただくのがよいのでしょう。

その一方で、限りある資源を使用していることは間違いありませんので、より多くの人が医療で救われるための経済的な面も、それぞれのヒトが意識する必要はあります。

私たちの身近には意外にたくさんの呪術的行為があり、手術室の「そうだからそう」としか言えないルールの数々も呪術に相当するといえる。(P79)

これまでの呪術研究で、呪術が現れるのは、妊娠や出産、病気、畑の耕作や獲物の収穫、大航海など、人々が生きていく上で極めて重要でありながらも、その未来が望むべくものになるか保証しにくい場合であることがわかっている。(P81)

よく、合併症の可能性はゼロではないとか、再発の可能性は考えられるとか言います。できるだけ人事は尽して治療の合併症なく、再発なくできればと思っています。

それでも、可能性として起こることはわずかな確率でも起こり得ます。医療者にとっては多くの患者さんを診て、そのうちわずかな確率で起こったこととしても、そのわずかな確率に当った患者さんにとっては、人生の一大事となります。

出来る限りのことを行い、考えて医療を提供する必要があります。そのためには意識的にできること、知識や技術として確立されていることは落としてはいけません。人事は尽すということですね。

そのうえで、呪術的な要素かもしれませんが、手術室における清潔な場所の区分けなど各種ルールや、儀式的にまでも感じられる名前確認、左右確認などの順序立った作業が、もう一押しの念押しをしてくれるのだと思います。

たとえその呪術的要素が神様に届くのではなかったとしても、スポーツ選手の“ルーチン”のようなその一連の行為を行うことで、医療者には気持ちの落ち着きや安心感、いつも通りという安定感が得られるのではないかと思います。

考えてみれば、手術というものは大変な作業です。手術を無事に遂行するために、術者や助手といった医者だけではなく看護師や麻酔科医、機器の管理をする臨床工学技士など大勢が関わっています。

それら大勢の手術に対する心を合わせるために、というとそれこそ呪術的ですが、ある程度の実用的には意味がないかもしれない行為は、役立っているのではないかと思います。

漢方外来で働く医師、看護師、そして患者が漢方を使いたいと思うのは、漢方が科学的に立証されているからではない。そうではなく、西洋医学では手が届かない身体の不調に対応できるからである。西洋医学を推進する人々が漢方を批判し、それを受けて漢方医が自身の医学に科学性を求めようとしてきた歴史とは正反対の流れが臨床には存在する。(P128)

西洋科学の基盤に基づく医療が、近代から主流になっています。この医療は様々な薬剤の開発や臨床試験の進展と相俟って、多くの患者さんを救ってきました。

一方で、医療は必ずしも科学的な要素だけから成り立っているものではありません。科学的にははっきりしていないこと、科学的根拠を単純に押し当てられない患者さんの思いや事情、そして西洋医学では解決できない問題も多々あります。

我が国でも西洋医学が発達、普及する前に行われてきた漢方は、そういった西洋医学を補ってくれる存在と思います。

もちろん、突き詰めれば漢方も科学的に解明できるのかもしれません。もしかしたら漢方医療に独特の視診や触診などもAIやら何やらである程度可能になるのかもしれません。

それはそれでいいのですが。たとえ科学的根拠がないから漢方をアヤシイ、使わない、と言うのはもったいないのではないでしょうか。

科学に基づいた西洋医学は、近年のAIの発達と足踏みを共にして、診断や治療方針の選択に極めて有用ではあります。

一方で漢方は、西洋医学では対応できないところを補完してくれる、患者さんや場合によっては西洋医学よりも有効な効果を発揮するものだと思います。

病気を「治す」ことが医療の仕事であるというしごく当たり前の考えは、かれらの仕事の本質をむしろ見えにくくするし、もっといえば、誤解すら招きかねないのではないか、と。身体の異常を元通りに治すとか、心身の不調をすっかり取り去るとか、字句通りの「治す」からはいっけん離れたところにある医療行為が現場にはたくさんあり、それらの行為こそがまさしく医療なのではないかと思わせる場面が存在するからである。(P140)

たとえば「手術」というと純粋に「治す」行為のように感じられます。しかし手術にも多くの治療以外の要素が附随します。

手術の説明にしても、単に手術の目的、方法や合併症を説明するだけではなく、患者さんの病態はもちろん、その患者さんの場合の一般的な例や他の患者さんと異なる点、注意すべき点、あるいは今後の展望なども説明します。

それら説明に対する患者さんやその家族の考えや思い、疑問点なども伺い、できる範囲で対応していきます。

手術の準備にしても、一般的な手術法や注意点などは勉強するにしても、その患者さんだから特に注意すべき点などについて、術者一人で考えるのではありません。

カンファレンスなどで他の医者や麻酔科医、場合によっては看護師やその他スタッフも含めて検討します。

手術をとりまく様々なイベントをもって、医療者は患者さんに病気を治すだけでなく、病気や自身の身体の理解、精神面でのケア、人間関係の構築を行っています。

さらに、医療者は医療者で、手術などの医療行為を契機としてさらに自分たちの知識や技術を磨き、次の医療に役立つようにしています。

むしろそこで重要になるのは、医学を目の前の患者にインストールすることではなく、標準化が不可能なそれぞれの患者の人生の文脈に、医学という知をどう混ぜ合わせていくか、医療者の持つ専門知と患者の人生の間にどのような再現性のない知を立ち上げ、実践し続けていくかである。(P163)

西洋医学では科学を根拠とします。科学の特徴の一つが「再現性」です。つまり、ある病気の診断でこういった病状であれば、標準的な医療を施せば誰に対しても同じような結果が得られる、というものです。

その流れを患者さんに“インストール”、つまり入れ込んで押し付けるのではなく、患者さんの人生に上手く“混ぜ合わせていく”ということが大切なのですね。

そこには「再現性」はもはやありません。患者さん個人個人によった医療があるのみです。

ものごとには具体と抽象があります。たとえば、純粋に数のみを扱う「数学」から、運動や力を数によって扱う「物理学」、さらに複雑な力関係や反応を扱う「化学」、それが多彩に組み合わされ、様々な機能や構造を伴う生物を扱う「生物学」への流れは、具体度が上がっていると言えるでしょう。

「生物学」から、さらに具体度を上げて、とくにヒトの生物学的特徴や異常、その改善を目指すのが「医学」になると思います。

この「医学」まで来ても、科学的根拠に基づいており再現性があるという点ではある程度の抽象度は確保されていると思います。

さらに具体度を上げるとどうなるか。それが患者さんの個々の事情に応じた医学を考えることになります。

抽象度を上げ、再現性や原理原則といった確実なものにたどり着き、確率的に良い医療を施すことができます。

さらに、具体性を上げて考えることにより、患者さんの生き方考え方に応じた医療に近付くことができます。

そこには抽象性は追いつかず、科学的根拠も届かないかもしれません。漢方医療やナラティブ(患者さんの物語;半生や境遇、考え方や生き方など)を大切にした医療とは、そこにあるのだと思います。

「失語症の場合、スロープになれるのは人」(P208)

失語症の不自由さが他者との関わりの中でもっとも表出してくる以上、スロープや点字ブロックの役目を果たせるのは人しかいないのである。(P209)

バリアフリーという言葉は、バリア(障壁)が無い状態(フリー)にしましょうという呼びかけを表す言葉です。車椅子の方や手足が不自由な方にとってちょっとした段差が通行の障害になります。そういったバリア(障壁)を無くしましょう、と。

では、失語症の人にとってのバリア(障壁)とは何でしょうか。言葉が不自由なことによって障壁となるのは、他の人と関わり、コミュニケーションをとることが難しいところにあります。

ただし、コミュニケーションの手段は言葉だけではありません。たとえ言葉を発することができなくてもジェスチャーや表情、雰囲気などで相手の言いたいことがある程度わかることもあります。

また、たとえ言葉を理解することができなくても、こちらもジェスチャーなどや手をとったり絵を見せたりすることによってある程度理解してもらうことができることもあります。

物理的なバリア(障壁)を除去するには、物理的に撤去することや板を渡したりスロープを付けたりすることによって可能です。

失語症によるバリア(障壁)を除去するには、なにも言語のみにコミュニケーションを頼らず、様々な手段を用いてなんとかコミュニケーションを取ろうとする気持ちが大切でしょう。そういう気持ちさえあれば、相手を理解し、伝えることはいくらかでも可能だと思います。

逆に、「こちらの言っている言葉を全然理解してくれない」「何と言っているのか全く分からない」などと突っぱねるような態度では、分かるものも分かりません。

人が失語症の人に対するバリア(障壁)となってしまわないようにするために、言葉に頼らず相手と関わりあう気持ちが大切ですね。

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我々は小学校の辺りからずっと“答えの有る問い”を解く訓練を続けてきました。たしかに合否判定や評価のためには必要です。

しかし、世の中には“答えの無い問い“を相手にする職業も多くあります。医療者もその一つです。

試験では通用する「問いと答え」のパターンが、実際の患者さんに対しては、そっくりそのまま使えるわけではありません。

また、治る病気もあれば治らない病気もあり、後遺症が残る病気もあります。治療方針など難しい選択をせまられる場面も多くあります。

エビデンス(科学的根拠)を参考にするEvidence based medicineは前提としても、患者さんそれぞれの事情や考え方・生き方といったナラティブを踏まえた”最善解”と思われる答えを提供する、いわゆるNarrative based medicineが大切な時代です。

その”最善解”に近付くためには、医者一人のなけなしの知識や技術だけではなく、多くの医療者をはじめスタッフの助けが必要です。そして患者さんや家族の協力も必要です。

それぞれの医療者が、自分の知識や技術を提供し合って、ときには呪術的要素を取り入れ、ときには科学的根拠に乏しいことも持ち寄り、患者さんにとっての最善解にできるだけ近付くようにすることが、これからの医療に大切と考えます。

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