人間関係の“習い事”

2024年1月6日

アニメ療法 パントー・フランチェスコ 光文社新書

“学びて時に之を習う 亦楽しからずや“(『論語』学而第一)

一つのことを学んだあとには、それを繰り返し実践することによって自分の身につき、利用可能なものとなります。

「知識」の仕入れは様々なところから可能です。人から聞いた知識、テレビで見た知識、本から得た知識、ネットで調べた知識。

こういった「知識」も、別の機会に自分で使ってみることが可能で、役に立つようになれば「知恵」として昇華し自分の身についたと言えるでしょう。

使い方にも注意が必要です。知識や技術は“上手く”使えるようになることで、知識は知恵となり、技術はアートとなります。

“上手く”使うために大切なのが、「人を思う心」であり、「人間心理の洞察」です。あるいは西田幾多郎の言う「善」かもしれません。

とは言え、一度きりの人生で知識を得て、それを“上手く”使うことができるようになるのは大変です。

知識は学校などである程度詰め込むことができますが、それを実践で使えるようになるかどうかはまた別の話です。

“学ぶ”ことは簡単です。それを“習い”、上手く使うことができるようになるのは難しい。でもそれができれば、人生をより楽しく生きることができます。

だからこそ、孔子もおっしゃったのです。学んだことを習い、上手く使えるようになる。そうできるようになることはなんと楽しいことか、と。

刻々と経過する人生の道で、我々は能動的に他人の人生を知ることができます。もちろん他の人間に話を聞くのもいいですし、様々な作品で知ることもできます。

読書もしかり、映画もしかり、そして今回ご紹介する本で述べられているアニメもしかりです。

このアニメにおいて主人公はこう考えてこう行動した。このアニメにおいてこのキャラクターの性格はこうで、このように生きた。

もちろんストレートに現実における自分の人生に投影することはできないかもしれませんが、その考え方や生き方を自分の人生を照らす光源の一つにすることは可能です。

そして、そこに大切なのは作品に入り込み、登場人物になり切ること。つまり「没入」ですね。

この没入させる表現性、芸術性、魅力にあふれた作品を生み出しているのが日本のアニメ文化であります。

この本では、精神科医である著者が、現代においてほとんどの人が有する“人間関係の問題”に対する方法として、「アニメ療法」という一手があることを明快に示してくれています。

灯台もと暗し。離れて分かるふるさとの良さ。日本が誇るアニメには、現代人を救う力があふれていると感じさせてくれます。

著者のアニメに対する熱い思いがうかがえる、それでいて多くの文献やご自身の研究をもとにした科学的な記述には説得力があり、気持ちよく読むことができます。

また、私がイチオシの「読書」の力もまたアニメ療法と同等に再認識させてくれる、頼もしい一冊でした。

筆者もやはり、日本アニメを単なる娯楽の一種として楽しんだだけではない。思春期の心理的成長において、アニメキャラクターとの感情的な関わりが大きな役割を持ったと自覚している。この経験から日本文化を知りたくなったし、アニメーションは娯楽を超えて自分の気持ちを、他者の気持ちを知るための術になり得るのではないかと考えるようになった。(P7)

私も、たとえば宮崎駿氏のアニメ、とくに『風の谷のナウシカ』や『天空の城ラピュタ』などは子供の頃から百回以上は観ていると思います。

同時に、そこで繰り広げられる人間関係や、それを形成する登場人物の人物像、考え方や生き方を、それとなく感じとってきたと思います。

もちろん幼少期にそんな小難しいことを考えて観ていたわけではないと思います。

でも、小さい頃から最近まで繰り返し観ることにより、単なる娯楽に感じていた時期もあったり、自分の年齢や境遇に合わせて共感できる登場人物が変わったりと楽しむことができます。

このように、観る人の立場や境遇に合わせて、どんな人にどんな時にも大いに学びとなる作品が「古典」というものだと思います。

また、予備校時代には社会現象を引き起こしたと言われた『新世紀エヴァンゲリオンに』に没入したこともありました。

予備校生という不確定な境遇において、同様に不安定な境遇に投入された主人公への共感、その心理的変化への興味と自分への投影があったと思います。

最近では『鬼滅の刃』ですね。厳しい環境でも自分の役割を確信して必死にがんばる主人公やその周囲の人間関係が感じられます。

別な意味でやるかたない時代を生きる我々は様々なものを感じ、勇気づけられたと思います。

たしかに、自分の周囲の人々との関わり合いで磨かれるのが人間関係ではありますが、こういったアニメ作品からも多くを学ぶことができます。

とくに、この登場人物はどういう気持ちでいるのだろう、そして自分はどういう気持ちでいるのだろう、といった「人を思う心」、人間関係の機微について学ぶところは大きいですね。

まさに“アニメーションは娯楽を超えて自分の気持ちを、他者の気持ちを知るための術になり得る”と思います。

なぜ人は物語を必要とするのか

古今東西、人類は娯楽を、物語を求めてきた。本章で見てきたその理由を大まかに整理すると次のようになるだろう。

・楽しむ、笑うため。・・・

・感動を覚えるため。・・・・

・社会的な絆を深めるため。・・・

・学ぶため。・・・・

(P58)

多くの国や地域に「神話」があります。神々の物語や古くからの言い伝え、あるいは昔話のような身近な社会での話が、大切にされてきました。

この神話にも様々な役割があると思うのですが、ここでは引用の4つに分けて述べられています。この神話の役割はそっくりそのまま物語の役割と言ってもいいでしょう。

物語はハラハラドキドキしたり嬉しかったり哀しかったり怒りを覚えたりと感情を動かしてくれます。

人は感情の動物でもあり、感動して感情を動かされることによりスッキリするカタルシス効果も得られます。そういった娯楽としての役割も神話にあります。

さらに物語には仲間同士の結束や家族の愛、男女、上司と部下、兄と弟の関係、あるいは神と人との関係といった人間関係についても逸話が散りばめられています。

知識や技術といったもののノウハウ的なことを学ぶことも含め、神話にはそういった人間関係を学ばせてくれるという役割があるのです。

流通するような本や芸術作品、ましてやアニメなどが無かった昔の時代には、そういった人間関係を学ぶ教材として神話が大切に言い伝えられてきたのだと思います。

さて、「ナラティブ」という言葉だが、これは関係性を持つ出来事に関する口頭の伝達、もしくは記述を指す。そして、この伝達においてしばしば物語という方法がとられてきた。本書ではこれまで主に「フィクションの」「作品」という意味合いで物語について話してきたが、私たちの人生もまた関係性を持つ出来事の集まり、つまり物語と言える。私たちの人生(=物語)のナラティブと作品(=物語)のナラティブが類似する。このことが、筆者のアニメ療法の基盤となる。(P120)

さて、人間関係はどのようにして形成されるのでしょうか。家族のようにこの世に生まれたときから発生する関係もあります。また、学校や会社など組織に加わることにより生じる関係もあります。

主観的な人間関係もあれば、客観的な人間関係もあると思います。。たとえば医者が患者さん一人についての人間関係を、本人に聞いたり家族に聞いたりして知ることができます。これは客観的です。

一方で、患者さん本人がこれまで連綿と連ねてきた人間関係は、全て言い表すことができないものと思います。

印象に薄い人間関係もあれば、忘れているものもあります。本人は何とも思っていなくても、篤く周囲の人が本人を思っているような関係もあるでしょう。

また、人間関係といっても現実の人間だけが対象とは限りません。死別した親族や、歴史上の人物、あるいは小説やドラマ、アニメで見知った登場人物が、その人の生き方や考え方に大きな影響を与える関係となっていることもあります。

そういった人間関係が影響を与え、患者さんなり個人の人生という“物語”つまり「ナラティブ」を作るのです。

そして、そのナラティブを大切にして、患者さんの生き方考え方を形成してきた人間関係やこれまでの人生を大切にすることが、人間としての患者さんを大切にすることです。

さらに、人生の一部である“病”を得たときの治療方針や今後どうするかを考えるのが、最近大切にされてきているナラティブをベースにした医療ということですね。

これまでは統計や理論から科学的に割り出されたデータ(エビデンス)を用いた治療方針決定がメインでした。

最近では、それも踏まえて、どのように治療して生きていくかについて、患者さんがこれまでの人生と人間関係で培ってきた生き方、考え方の物語(ナラティブ)を考えた医療も進められています。

前者の没入現象が起きれば感情移入につながり、自己変容へとたどりつける。一方で批判は物語世界からの離脱へと結びつく。そうなれば、感情移入を前提として自己変容への期待は乏しくなる。当然、筆者が提唱するアニメ療法においてもポジティブな心理的な効果は、批判ではなく没入体験に入ってから始まる。(P176)

よく、本の批評というと、その本の欠点や考察の甘い点、表現力に劣る点や分かりにくい点などをあげつらう厳しい評価と感じることもあります。“批判的”にといった印象ですね。

ここでいう“批判”という言葉は、批判的といった非難するニュアンスの強い意味もありますし、客観的な評価つまり“批評”といったニュアンスでも用いられると思います。

批評というのは本に対して中立的な立場から評価を行いつつ、ときには自分の知識や経験も加味して本の内容を掘り下げる作業と思います。

もちろん批判的た態度で作品に対峙していては、欠点や矛盾点を見つけてやろう、現実性のなさを指摘してやろうなどと作品の外側から懐疑的に観てしまいます。

相手の良い点は、ある程度相手の立場に入り込まないと分からないこともあります。人間だけでなく、作品についても同様だと思います。

作品の訴えたいこと、作者の訴えたいことに聞く耳を持ち、共感するためには、批判的ではなかなか入り込めません。

それに対して“没入”は、ただただ主観的に作品に対して邁進する態度と感じます。

自分の好み、興味、価値観や思い、あるいは思い込みの及ぶままに作品を読み込み、鑑賞しプレイし、その世界に入り込みます。

客観的に読むというよりも、物語の世界に自分を入り込ませることで、自分もその物語の中で様々な出来事を経験しているような体験ができるのではないでしょうか。

人が、人と人との間の関係、つまり人間関係を学んで“人間”となるためには人間関係を勉強する機会が必要です。

これは通常は日々の生活や仕事、学校や家庭、職場などの現実世界で他人と過ごしていくうちに学ぶことが多いでしょう。

しかし、現実からの学びだけで間に合うこともあれば、多彩な人間関係や人それぞれの考え方はあるものですから、自分の一生だけでは学びきれないことも多々あります。

そんなときに役立つのが、他人の人生から学ぶことです。それがアニメや映画、テレビドラマ、あるいは読書です。

そういったメディアによって他者の生き方、物語を知ることが、自分で経験できない学びを得ることにつながります。

そうであれば、せっかくですから現実で経験するように自分もその物語に入り込んで経験できればいいですよね。だから、没入できると強いのです。

そして、没入できるかどうかは自分の興味や好みなどにもよりますが、作品の魅力や面白さ、芸術性にもよるでしょう。

そんな中で、多くの人を没入させる魅力、物語の面白さ、芸術性。そういった要素に優れているのが、日本のアニメなのだと思います。

*****

アニメ療法に比較すると、読書療法はいささかハードルが高いかもしれません。なにせ日本のアニメは受動的に観ていれば、その素晴らしい物語性と芸術性で観るものを没入の境地に運び入れてくれます。

それに比べて読書は「読む」という能動的な要素が高い作業です。たしかに集中してじっとして本を手に持ち読むのはめんどくさい。

しかし、本もまたアニメと同様に、読者に物語を提供し心を癒やして人間関係を教えてくれるものと思います。

そして、“集中してじっとして”という、いわば「瞑想」にも通ずる境地を帯びる読書は、アニメとはまた異なる効果を持つと私は信じます。

この本を読んで、アニメ療法の大きな可能性に期待するとともに、読書療法についても推進していきたいと思ったのでした。

Amazonで注文

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。