考えるな、感じろ

それでも、読書をやめない理由 DLユーリン 井上里 訳 柏書房

読書好きのみなさんは、自分がなぜ読書を続けているか考えたことはあるでしょうか。いろいろ考えられることはあるかもしれません。「そこに本があるから」でもいいですよね。

えてして、なにかの行動は本当に自分がそのメリットやデメリットなどを勘案して天秤にかけて行っているというものでもありません。

「好き」というのも、自分で発する感情ではなくて、何かしているときに自然に感じられる感情だと思います。

感情ですから理論的に述べられるものでもなく、「虫が好かない」「腹落ちする」などと同様の感覚です。

それゆえ「好き」に理由、まさに理論的な事情は不要です。「なんとなく」が一番しっくりくるかもしれません。

それにしても読書には多くの効用があります。「好き」なものが心身を害するものであれば問題になりますが、読書は無害です(肩コリなど個人差はあるかもしれません)。

自分はなぜ読書を続けているのか、好きなのか。それをこの本はちょっと垣間見せて感じさせてくれるかもしれません。

読書は、一種の瞑想だ。おそらく、わたしたちが、別の人間の意識と同化できるただひとつの方法だ。(P25)

今では、一口に“瞑想”といっても様々な形態があります。それこそ坐禅のような座って瞑目して集中するものもあり、あるいはマインドフルネスの一形態のように歩く瞑想、食べる瞑想などもあります。

なにかしらの身体的、精神的手段を用いて「今、ここ」に集中することを瞑想の一部と考えるなら、読書もまた瞑想と言えるでしょう。

坐禅や他の宗教的な瞑想は、無心になりただ仏や神を念じることで、あるいは自分の無意識などといった何か大いなるものを思い、あるいは思わないことで本来の能力を発揮する方法かと思います。

マインドフルネスは、何も考えずに集中するような従来の瞑想とは異なり、思い浮かぶ思念に対して川を流れる落ち葉のように認識しつつ流し、あるいは食事や歩行、運動といった動作の一挙手一投足に意識を向けることで、雑念に隠れていた本来の能力を発揮する方法かと思います。

いずれにしても、まったく何も考えないようにすることや、何か一つに集中して雑念を抑えることにより、自分の持つ埋もれていた能力や潜在意識、無意識の力を発揮するのではないでしょうか。

それに対して読書はどうでしょう。表向きは文字を読んでその内容を頭に入れ、知識や技術、あるいは小説などでは感動や経験を得る方法の一つです。

ただ、そこには文字や文章を追うこと、内容を理解しようとすること、物語の風景や登場人物の感情を理解しようとすること、共感することなどを通した集中が表れます。

読書は積極的な行動です。読者が積極的に向き合っている本から得る物語には、受動的に人の話しを聞いたり映画やテレビで見たりする以上に、登場人物の意識と同化する作用が働きます。

集中は瞑想と同様に雑念を振り落とし、本と一対一の空間を作り上げます。本当に読書に没頭しているときは、時間の流れや周囲のことも忘れています。

マインドフルネスが行動をも集中の一手と考えるのであれば、読書は本を読む行動を媒介とするマインドフルネスと考えられます。

読書をするとどうなるのでしょうか。単に読んだ本の内容や物語を知るだけではありません。文章に集中して時間を過ごすことにより、内容から反映される自分の知識や経験、過去の出来事も意識に登ってきます。

まさに読書は自分との対話であり、本というもの、読書という行動を介して、自分はどういう考え方をするのか、どう思うのか、どう生きているのかを省みさせてくれると思います。

ネットの世界はこう断言する。スピードこそがわたしたちを事実の解明へ導き、深く考えることより瞬時に反応することのほうが重要で、わずかな時間も無為に過ごしてはいけない、と。そこに、わたしたちの抱える読書の問題が端的に表れている。なぜなら、本を読むには、それとまったく逆の姿勢が必要だから。(P46)

さて、今こそ読書の―真の読書の―出番である。なぜなら読書には、余裕が必要だからだ。読書は瞬間を身上とする生き方からわたしたちを引きもどし、わたしたちに本来的な時間を返してくれる。(P103)

『スマホ脳』『デジタル・ミニマリスト』を読んでも感じました。デジタル機器は速く早く便利に充実を追求しており、使うほうも乗せられてしまいます。

日頃の思考も乗せられて、瞬時に反応すること、わずかな時間も無為にしないことを目指してしまいます。

そこからは多くの情報やスピード、便利さが得られるかもしれません。しかし人間の営みはそういった要素だけからなるわけではありません。

ゆっくり考えることや、じっくり考えること。不便や間違いも何かのタネになります。余裕も必要です。これらが、発明や工夫をもたらし、文化や文明を築いてきました。

余裕は重要です。車がカーブを曲がるときも、車幅以上に余裕がないとカーブできません。スポーツなどで、勢いを付けるためには反動をつけたり助走したりする余裕も欲しいところです。

アクセルやブレーキにも“遊び”という余裕があるからこそ、ちょっと触れただけで急停車急発進することが防止されています。

考えることについても、こういった感じの余裕が必要だと思います。では、どのようにすれば頭に余裕ができるのか。それもまた、読書のような作業だと思います。知識は頭のスペースを拡張してくれます。

さらに、ネットなどと異なり読書は積極的に行う要素が多い行動です。読書をすることで、読んだ内容を得るだけでなく、読書のように余裕のある時間を使ってもいいのだと実感することができます。

そして読書によって、余裕のある時間を確保することができるのだ、ということを覚えれば、人生の時間を使うにあたっても、効果的であることは間違いありません。

データをみても、形のない個人的な体験については何もわからない。父親のとなりに座って試合展開を説明してもらうことがいったいどんなことなのか、それを教えてくれるデータはないのだ。(P117)

たとえば野球の試合があったとします。べつにわざわざ観に行かなくても新聞やニュースなどで試合の設定、試合展開と結果、あるいは入場者数や盛り上がり具合などは知ることができるでしょう。

ではなぜ野球場に観戦しにいくのか。私は野球キライなこともあって、そういうことを考えたこともありました。

でも、やはりその場でしか味わえない臨場感や一体感などがあるのでしょうね。これは音楽においてもそうでしょう。CDやネットなどで聴くのと、会場やライブで聴くのとでは違うでしょう。

さらには場所に赴く、誰かと時間を共有する、リアルタイムに感じたり語ったりするところに“物語”が生まれると思います。

父親と一緒に野球の試合を観に行ったこと。同じ場所で隣同士に座って観ていたこと。父親は応援しているチームが活躍するたびに熱狂していたこと。展開がどうなのか、父親はどう思うのか随時説明してもらったこと。

ニュースやネット、CDでの視聴でも語りあったりできますが、データを元に語るだけのような気がします。その出来事や人物と同じ時や場所を共有するところに、物語が発生するのだと思います。

そして、読書は本のなかの世界に読者が時と場所を共有することができる作業であり、読者自身の物語を豊かにしてくれる行動なのです。

そういえば、医療でもデータやエビデンスなど大勢に当てはまることを大切にする医療の一方で、個人の考え方やこれまでの生き方、境遇など、つまり患者さんの“物語”を考える医療も増えてきています。

科学的には治るものは治る、治らないものは治らない、この症状にはこれ、この検査値ならこれ、などと決まっていることはその通りにすればいいのでしょう。

でも、その骨格だけのようなスキマカゼ吹く医療に肉付けし暖かみを与えてくれるのは、医療者と患者さんが時や場所を共有することで生まれる、 “物語”のチカラだと思います。

フィクションを読む人々は「物語の中で新たな状況に出くわすたびに、それらを脳内で疑似的に体験する。登場人物たちの行動や感情を細かな点まで行間からすくいあげ、自分が過去の体験から得た個人的な知識と融合させる」という。(P129)

ミラーニューロンという脳の神経細胞が、他人に対して共感することに重要な役割を果たしているとして注目されました。

それもそうですが、共感には自分が生まれてこのかた築いてきた脳のネットワークが、読んだり聞いたりした物語に対して反応しているようなことも、起きているのではないかと思います。

つまり、物語の登場人物がとる思考や行動のパターンが、自分にもある思考や行動のパターンだったり、昔経験してネットワークとして残っているパターンだったりするときに、共感が起こるのではないか、ということです。

自分が過去の体験から得た個人的な知識は、物語中の状況や登場人物の思考や行動と並べ比べられ、吟味され、共感あるいは違和感を覚えるなどします。物語を読むことによる登場人物の経験は、一部は読者の経験として読者に残るでしょう。

それによって自分の知識、施行や行動もわずかに変えられるかもしれません。その変化は現実での体験や出来事に対して、それまでの自分とはちょっと違った思考や行動を提供してくれるかもしれません。

このようにして、読書は人の人生を多彩にしてくれるのではないかと思います。

そんなふうにわたしたちの読む本は、読み手の非常に個人的な部分を映し出しているのだ。わたしの考えでは、同じことは、蔵書の中のまだ読んでいない本や、今読みかけている本、そしてとうとう読まずに終わる本にもあてはまる。(P165)

本棚はその人を表すと思います。本棚を見るとその人が分かる気がします。どんな本が好きなのかはもちろん、こういう本がこの人の頭を作っているんだ、と感じます。

人は本によって作られますね。

生まれて数年、哺乳から摂食へ、ハイハイから歩行へといった動物と同様、あるいはもっと遅れた成長しかしないヒトの子供。

それが猛烈なスパートをかけて動物を超越し人へ、人と人との間を学んで人間へとなるのは教育によるところも大きいです。

教育は、もちろん家庭や学校、あるいは地域などでの人と人との関係からも得られますが、教科書や資料といった文字、文章などから得るところが大きいでしょう。

イエスは「人はパンのみで生きるのではない」と言いました。パンのみで生きるのであれば動物でもできます。では、いかにして人間として生きるか。

そのためには「神の言葉」も必要です。動物と異なり神の言葉を聞くことができる人間は、それに従って人間らしく生きることができます。

さてしかし、ニーチェは「神は死んだ」と言いました。神が死んだ現在では、“神のような機能”は個々の人間に宿っていると考えられます。

“神のような機能”とは、どのようにすれば人間らしく生きられるのかを教えてくれる機能ということです。

それは自分の中にあります。生きてきたこれまでの出来事から学んだ知識や経験、本や教育から得た学びを総合して、どう生きるかを考える機能が、神です。

その中で、出来事や教育は偶然的、あるいは平均的計画的にしか与えられません。自ら積極的に学ぶことができるのが、読書です。

読書から生きるために実用的なことを学ぶことができますし、実在、あるいは架空の人物の物語を読むことで多くの経験を得ることができます。

あるいは自己啓発書や哲学・思想の古典などのように直接的に「人間はいかにいきるべきか」を教えてくれる本もあります。

「神の言葉」無き現代、自分の中に神を形成し生きるよすがとするために必要なのが、「紙の言葉」ということですね。

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