豊かな「思考の庭」を

思考の庭のつくりかた 福嶋亮大 星海社新書

人間の生活が発展して便利になってきたことには、科学が大きな役割を演じてきました。

でもなんとなく、世の中は科学や理系だけでなんとかなるもんじゃない、文系も大事だ、と思いませんか。

以前ご紹介した『センス・メイキング』はそんな考えを支持してくれる本ですが、この本もそうです。

この本は副題に「はじめての人文学ガイド」とあります。人文学つまり文学、歴地、哲学、あるいは宗教といったものはどういうものなのか、どのように付き合ったらいいのか、をガイドしてくれる本です。

これらは日常生活や社会に直接的に役立つ実学というわけではありません。でも人間が人間として生きていくために必要な要素が、人文系の学問には満ちています。

タイトルの「思考の庭」は私が最近気に入っている言葉です。頭の中を良い状態に、とくに栄養たっぷりの良い土壌を保っておくと、そこには様々な草木や花が生まれる。思わぬ化学反応や発酵が起こる。そんな感じです。

そう、人文学はこの豊かな土壌の「思考の庭」を造ってくれる学問です。そして、そこに生える草木や花、あるいは訪れる鳥は、我々の生活を便利に豊かにしてくれる科学的思考や芸術(アート)、想像や発想などかもしれません。

そして知識や技術を知るだけではなく、それを上手く応用することが大切です。そのためには豊かな「思考の庭」が必要です。

逆に、豊かな「思考の庭」が無いと知識や技術を上手く使うことができません。様々な科学不信の引き金となっている出来事は、そういったことから起こるのでしょう。

立教大学文学部准教授である著者は、日本近現代の文学や思想を主な対象として、横断的広範な射程で批評家としての活動をされております。

読書や日常から取り入れた様々な知識、経験、思考を上手く花開かせるために大切な「思考の庭」。

皆さんもこの本を読んで人文学との付き合い方を学び、豊かな「思考の庭」を整えましょう。

・・・人類社会が続く限り、宗教も存続するでしょう。なぜか。第一に、理性(考えること)と信仰(信じること)は必ずしも敵対しないからです。第二に、宗教は近代人には解決できない問題こそを扱っているからです。(P132)

信じることで、見えない道を進むことができ、進むことで、見えてくるものもあります。自然現象も昔はなんでも神様の所業とされていましたが、だいぶ科学で解明されています。

理性と信仰は相補的な関係で助け合いながら、物事を解明していくための手掛りになっているのではないでしょうか。

前回に引き続いて「数直線」を引き合いに出しますが、科学という「有理数」と、信仰という「無理数」でこの世界は一続きに続いているのかもしれません。

デューイによれば「共に生活するという過程そのものが教育を行うのである。その過程によって、経験が拡大され、啓発される、想像力が刺激され、豊かにされる」。デューイにとって、教育とは経験を拡大し、想像力を豊かにするコミュニケーションであり、学校のみならず共同生活の場で引き起こされるものです。(P163)

コロナでWebによるリモート講義やリモート勤務が普及しました。学校や会社に行かなくて済む分、便利になった点もあるでしょう。

でも学校に来ること、みんなと同じ場所で過ごすことも大事なのではないかと思います。同じ空気を吸うこと、雰囲気を共にすることなども。

そういった環境により、一人の経験が周囲の大勢でも共有され、他人の気持ちを想像する能力が養われ豊かになります。

これは仕事も同様で、やはり画面ごしのほとんど言葉だけによる対話からは分からないことも、仕事の大切な要素なのではないでしょうか

“暗黙知”のような、言葉では伝わらないこともありますし、“背中を見る”ことでしか教えられないこともあります。

学校教育にしても、職場教育にしても、共同の場で過ごすということが、けっこう大切なのだと思いますよ。

歴史学的なセンスが要求されるのは、このような「点」の支配から逃れ、事後的な合理化の罠を回避し、むしろその手前にあった複雑な「線」のからみあいに敏感になろうとするときです。(P177)

前回の、歴史物語『曽我兄弟より愛を込めて』の紹介記事でも話したかもしれませんが、歴史も二つの立場に挟まれた学問だと感じます。

史実や事実、証拠品を基に分析的に知識を積み上げていく学問でもあり、また物語としてある程度間を埋めて繋がりを創造していく学問でもあると思います。まさに複雑な「線」のからみあいです。

そもそも理系、文系と分けるのは、おそらく高等学校あたりで大学受験の受験科目を選択して勉強する都合が影響しているのだと思います。

しかし、そうやって分けて勉強して、進学先も理系学部だとか文系学部となっていて、そこを卒業したら、私は理系、私は文系と自覚してしまう。

その後の人生も、理系的思考、文系的思考で、どうしても進んでいってしまいそうです。

たしかにそれで困らない純粋に(?)理系の仕事、文系の仕事というものもあるでしょうが、ほとんどの仕事はきれいにどちらか一つという訳ではありません。

とくに医者なんて職業はそうです。医学部は理系のように考えられがちですがそうでもありません。人間は生物ではありますが、文学的な、哲学的な、宗教的な生き物なのです。

アートは特定の時間と空間にしっかり結びついており、ひとびとはこの唯一無二の芸術作品に「礼拝」するように接していた。美術館の絵画やコンサートホールの音楽は一回きりのものであり、それゆえそこには礼拝的価値、すなわち「アウラ」(オーラ)が宿っていました。(P227)

科学が発達して人工物に囲まれると同時に自然現象の原理も理解が進みました。もはや自然現象に対してあまり感動しなくなっているかもしれません。

一方で人の手によるものでも、アートはときに言葉以上のことを我々の頭の中に吹き込んでくれます。

とくに感情や気持ちなど、言葉ではむしろ表現しにくい機微を、アートは表現して教えてくれることがあります。

また、近年はメディアによってどこにいてもアートを味わうことができます。絵画も画面で見ることができますし、音楽もCDなどで聴くことができます。舞台芸術や映画もテレビで見ることができます。

しかし昔は、美術館なり劇場、映画館なりに出向いて行かないと、そういったアートに触れることはできませんでした。

この“出向く”という行動も、出向いた先のアートに触れるうえで、良いスパイスになっていると思います。

わざわざ出向いてまでの、そのとき一回きりのアートを観る、聴く。その一回性の効果もあって実数以上のもの、まさに信仰のため教会に出向くような礼拝的価値「アウラ」を帯びるのだと思います。

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実用的な面では理系、科学が優れるのかもしれませんが、そういった学問も豊かな「思考の庭」があってこそ発展するものです。

湯川秀樹氏も子供の頃から漢文の素読をなさっていたということですし、そのほか優れた科学者も人文学に通じている方が多くいらっしゃいます。

理論や発想を生み出す土壌となるような「思考の庭」。そこには人文学のエッセンスが大切なのですね。

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