「いき」は界面活性剤である

いきの構造 九鬼周造 角川ソフィア文庫

寒い時節、お肌の具合はいかがでしょうか。私は根っからの乾燥肌でありまして、保湿剤の入浴後塗布がこの季節の日課でございます。

さて、みなさんの中には肌の保湿剤として「乳液」を使用していらっしゃる方もおられるでしょう。この「乳液」とはどのようなものでしょうか。考えたことはありますか。

「乳液」とは、調べてみますと微細な油分が「乳化剤」と呼ばれます、油分とも水分とも仲の良い成分に包まれて、水分の中に漂っているものだそうです。

水分と仲が良いことを「親水性」、油分と仲が良いことを、こういったものはたいてい水分と仲が悪いので「疎水性」と言います。

乳化剤は分子の中に親水性と疎水性の構造を持ち、油分とも水分とも仲が良いので、上手く両者の間を取り持って、ほぼ均一に混ぜているわけですね。それによって効果的に油分と水分がお肌に作用してくれるのです。

さて、同様に家庭でよく使われる乳化剤のようなものとして、「洗剤」があります。どんなしつこい油汚れも落としてくれる、食器洗いの頼もしい味方です。

これも構造としては乳化剤と同様でして、親水性の部分と疎水性の部分からなり、お皿に付着した油分を上手く水分と仲良くさせ、水道の水によって流し落とすことができるようにしているわけですね。

洗剤の話では、こういった成分を「界面活性剤」と呼ぶことが多いようです。水と油を混ぜると二層に分かれます。それほど水と油は仲が悪いのです。これをムリヤリ混ぜると、ドレッシングにもなり得ますが、そこは物理的に油分が細かくなっただけであり、しばらくするとまたもとの二層に戻ります。

そういった水の世界と油の世界を分けている界面に対して、どちらにも仲のよい界面活性剤が、文字通り境界でのつながりを活発にして、混然一体となることを助けているわけです。

さあ前置きはこのくらいにしておきましょう。今回ご紹介する本は、みなさん誰もが聞いたことはありましょう、『いきの構造』です。「いきだねぇー」とか「いきでいなせな○○」などと用いられる「いき」について例示、検証し考察した本です。

日本文化には様々な特徴があります。禅の思想、わびさび、職人の思想、和洋折衷、用の美などなど。そのなかでも「いき」は、日本文化を代表する特徴の一つではないでしょうか。

しかし、この「いき」というひらがな言葉、なんとなく分かるようで、では何だと言われるとピンとこない、そんな感じではないでしょうか。

先ほどの長い前置きはこのためとばかり。私は「いき」は、人間と人間をつなぐ「界面活性剤」の役割を果たしているのでないかと感じました。

この本は、日本文化を理解するためには、ぜひお読みいただきたい一冊です。

私たちは民族を形成して暮らしているが、その民族の特質は言葉を通じてあらわれる。言葉というものは、その民族の過去から現在までのありようを語るのであり、民族性の表現にほかならないのである。それゆえに、ある民族の言葉というものは、必ず、その民族の暮らしに固有の特異な色合いを帯びているものなのである。(P17)

「いき」の話はひとまず置いておいて、「言葉」とはどういうものか、という確認になります。言葉はコミュニケーションツールであり、表現の手段です。また、記憶、思考にも関わっています。

言葉は思考の道具ですから、言葉の数つまり語彙数が増えるほど、思考のバリエーションも広がってくると思われます。また、言葉の数やまとまり、使い方の違いによって、物事の捉え方や思考も異なってくると思われます。

そういったわけで、言葉の違い、つまり言語の違いが思考の違いに繋がると考えられます。これはサピア・ウォーフ仮説として、人間の思考や行動に言語が密接に関わるとされています。

同時に、言葉によっても我々の考え方、捉え方が異なるので、言葉は文化を形成すると言っても過言ではありません。日本人は日本語を話し、その日本語に基づいて日本文化を創ってきたわけです。

日本人を含め、世界には様々な民族と呼ばれる集団があります。民族にはそれぞれの特色があります。民族衣装や民族舞踊、芸術や工芸、宗教や習慣などで民族の特色は表現されますが、その民族が使用する言葉もその表現手段の一つでしょう。

逆に、言葉を知ることは民族を、それを構成する人間を知ることに繋がります。私を含めて日本人が日本の言葉を知ることは、より日本人や日本文化を知ることに繋がります。

この本で「いき」という日本独特の言葉について知り、考察することにより、読者はより深く広く日本人や日本文化の特色を感じることができます。

要するに、「いき」な色とは、いわば華やかな体験の後に残る消極的な残像ともいうべきものである。「いき」は過去をひきずりながら未来に生きるのである。(P124)

冒頭で、「いき」とは界面活性剤のようなものである、と言いました。界面活性剤や乳化剤は、水と油という相容れない仲を取り持ったのでした。それでは「いき」は、どういった異なるもの同士を取り持つというのでしょうか。

まず、この引用に述べられているように「積極性」と「消極性」です。華やかに、活き活きと、大胆に進めるよっ! という積極性を見せながら、相手を思いやり、周囲に気を遣い、けして度を越した、羽目を外したものにはならない消極性をも帯びる。

そんな積極性と消極性を仲良く取り持つのが「いき」であり、同時にそういう状態が「いき」なのだと思います。

そして、「過去」と「未来」です。たとえば「いき」な模様というと、けして派手ではなく、地味でもありません。

たとえば衣服の色にしても、もしかして新品のときはは鮮やかな色彩だったけれど時間が経って少し色あせ落ち着きを帯びてきた、夕暮れのような色彩であったり、夜明け前のうすぼんやりした彩度の低い色ではあっても、これから日の出とともに鮮やかさを増しそうな感じがしたりする色。

あるいは、元気いっぱいな子供や若者、または若作りするような人でもなく、かといって老いに感けて年寄りらしく生きる人でもなく、現状を受け入れいろいろ大変だけどなんとかかんとか過ごしているパレートの法則の真んなか6割あたりの人々のような人。

「今ここ」はマインドフルネスでも瞑想でも、様々な思想・哲学・宗教でも一つのポイントとなっていますが、過去と未来を漂わせつつ収束する今を表すのが、「いき」の一つの特徴なのかもしれません。

「いき」は、そうすることによって究極的には人間と人間との関係性の活性化を生み出します。惹きつけ、受け容れると同時にはねのけ、身を引く。それを見る人は焦がれると同時に諦める。

この「諦める」ということ、つまり「諦観」ですが、これも「いき」の重要な要素だとのことです。そこには人生の酸いも甘いも経験した者が理解できるものがあるのでしょう。

これはもしかして、脱構築といいますか、二項対立からの脱出、ひいては止揚(アウフヘーベン)ともつながる思想なのかもしれません。

「いき」を抽象的、概念的に分析して得られたものは、具体的な「いき」のいくつかの要因を指し示すにすぎない。「いき」を分析することによってこうした抽象的、概念的要因を抽出することはできるが、逆に、そうした要因によって「いき」を構成することはできない。(P143)

それでは「いき」とは結局は何のことだ、と考えると、つまり様々な「いき」な物事から「いき」という概念を抽出して、色々な物事に「いき」を付加しようとできるのかというと、そうでもないのです。

「木を見て森を見ず」になってはいけません。「いき」のような文化は揮発成分のように抽出して純化できるものではなく、様々な物や人、文化に備わっていてこそ発揮され、感じられるものです。

これは生物とも似ています。例えば魚を解剖してみると、バラバラにしてヒレや頭や胴体など部分部分の集合であったことは分かりますが、そこに「生命」は見つからず。

脳みそをいくら解剖してみても、電気活動を調べても、構造や電気の流れは把握することはできるかもしれませんが、そこに「心」は見つからず。

「いき」とは、生物における「生命」、脳みそにおける「心」、あるいは心臓や血管における「循環」のような、いわゆる「機能」の話なのだと思います。

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日本人は、「いき」がある物事を「いき」と感じる感性が元々備わっているのだと思います。元々といっても、これは教育や習慣、文化によるものでしょうけれども。

この「いき」を感じる感性は、いわゆる集合的無意識のことかとも思います。日本人という集団がもつ、集合的無意識の一つの要素。

「いき」は界面活性剤のように人間同士の関係を活性化します。しかしながら活性化といっても、表立ってにぎやかに交流するわけではなく、焦がれ、諦め、はじき、惹きつけるといったように、「退け合う」と「引き合う」という磁石の二つの特性を併せ持つような機能なのです。

もしかして、日本人の得意な「以心伝心」にも、一役かっているのかもしれませんね。

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