人新世は「人」しだい

2022年12月30日

人新世の資本論 斎藤幸平 集英社新書

”カオル死んで石兄さん自白・・・”

カンブリア紀、オルドビス記、シルル紀、デボン紀、石炭紀、二畳紀、この辺りが古生代。近年話題のカンブリア大爆発や三葉虫などが有名ですね。

三畳紀、ジュラ紀、白亜紀、この辺りが中生代。まさにジュラシック○○であり、恐竜の全盛期ですね。

その後は新生代として区分され、哺乳類が発達してきた時期です。新生代第四紀は洪水堆積物や河川堆積物により地表が形成された更新世、完新世からなり、そのあたりで人類が出現してきます。

その人類は道具や農業を生み出し、産業革命後は爆発的に個体数つまり人口も増えてきました。もはや人類とその活動の痕跡が地表を埋め尽くす年代となりました。

畑、アスファルトやコンクリート、ビルなどの建造物が地表を覆い、大気には二酸化炭素がその割合を増し、海洋にはマイクロ・プラスチックが漂っている。

それが、「人新世」です。

しかし、耐え忍んできた地球も、人類の活動とその痕跡(傷跡)によりアップアップしてきました。気温も上昇し気候変動も顕著です。このまま地球損傷、気候変動は持続するのでしょうか。

恐竜がその大きすぎる身体ゆえに気候変動に耐えられず絶滅したように(諸説ありますが)、人類もその大きすぎる脳みそゆえに気候変動を自ら引き起こし、同様の道をたどるのでしょうか。

脳みそは大きければ良い訳でもありません。イルカの脳みそなんて人間のものよりも大きいらしいです(たしかにイルカは人間より賢い気もしますが)。

ただ、人間の脳みそには、動物たちにはない能力が様々備わっていると思います。たとえば言葉で伝えること、本で読むこともできます。

この本は、そんな「人新世」に生きる我々が、どう考えていけばいいのかをよく指南してくれます。ぜひ、全人類に読んでほしい一冊だと思いました。

資本とは、価値を絶えず増やしていく終わりなき運動である。繰り返し、繰り返し投資して、財やサービスの生産によって新たな価値を生み出し、利益を上げ、さらに拡大していく。(P132)

「資本」という言葉はよく耳にします。なんとなく分かりますが、いまいちピンと来ない方もいらっしゃるのではないでしょうか。はい、私もそうです。

この引用部分が、資本主義の説明として分かりやすいですね。つまりなんとかしてお金を儲けて、そのお金を利用して商品やサービスを提供し、さらにお金を儲ける。

お金つまり貨幣がすべての品物やサービスを仲介し、評価します。お金があればどんな品物もサービスも手に入れることができます。こういった体制が資本を中心とする世界(これを資本主義と言っていいかは自信ありません)の特徴です。

しかし、世の中はお金で手に入るものだけではありません。そのことを無視した活動が近年、世界のほころびを生み出してきたのではないでしょうか。

教育、医療、福祉、宗教、哲学・思想などなど。こういった数値化や客観的評価が難しい領域は、まさにお金や数字で評価することが難しい領域です。

そこでは、お金を基本とする数値化・客観化が必要な資本主義が入り込むことが、問題のタネとなっていると思います。

近年進むマルクス再解釈の鍵となる概念のひとつが、<コモン>、あるいは<共>と呼ばれる考えだ。<コモン>とは、社会的に人々に共有され、管理されるべき富のことを指す。(P141)

もともと河川や山林、農場に至っても集落の人々が共同で管理運営し、収穫を分け合う体制がありました。こういったものが<コモン>ですね。

「里山」という思想も、その一つだと思います。皆で手入れを行い、採れる山菜やキノコ、動物などは近くに住む人が必要に応じて入手する。同時に管理された里山は田畑に必要な養分も腐葉土や水脈により供給していたのです。

これは海も同様です。今は海でも勝手に魚介を採取していけない箇所があります。もちろん資本主義的に大量に採取して稼ごうとするのを止めるためかもしれませんが、もともと海こそ万人に開かれた恵みの母だったでしょう。

行動は心を変えます。里山の思想、海への態度は、それを相手にする人の心へも根ざすと思います。人間関係もこまめに手入れがなされ、必要なときには手を借りる。

悪いことをした時の「村八分」などという言葉も、そういうところから出てきているのかもしれません。

資本主義は確実に人の心をも資本主義に変えていると思います。相手は自分に何を与えてくれるのか、自分は相手や世の中に何を与えることができるのか、と。

『武器としての「資本論」』の紹介記事もご参照ください)

私たちのほとんどは、自分の手で動物を飼育し、魚を釣り、それらを捌くという能力をもっていない。一昔前の人々は、そのための道具さえも、自前で作っていた。それに比べると、私たちは資本主義に取り込まれ、生き物として無力になっている。(P220)

資本主義では生産作業は分業化され、効率を上げています。たしかに効率は上がりますが、各分業で仕事をしている人は、自分が何のために、どんな意味の仕事をしているのかを自覚することが難しくなっています。

よく、「自分は社会の歯車の一つに過ぎない」というネガティブな言い回しも聞かれます。こういった考え方も、分業体制から来ているのでしょう。

それに抗って一人一人の価値を各自で高めようとするのが、様々な勉強や資格などの自己投資なのかもしれません。

つまり、技術というイデオロギーこそが、現代社会に蔓延する想像力の貧困の一因といえる。(P229)

同時に、自分が社会の一部でしかないから、どうしても世の中こんなもんだ、自分がいくら考えてもどうにもならないんだと考えてしまいます。

技術があればなんとかなるんだ、上手くやっていくためには勉強して知識や技術を身に付けなきゃいけないんだ、逆に知識や技術がなければ何を考えてもしょうがないんだ、と考えがちです。

自分が何か想像しても、どうせ世の中は専門家が専門技術で動かしていくのだ、と考えてしまい、自分なりに想像することがなくなってしまう。

なんとなく、悩みも苦しみも技術でなんとかなりそう。そう考えてしまうと人生の機微に対する感性が鈍ります。人間性の危機です。

一方で人間性を考える人文学も、資本主義のもとでは弱体化されています。少なくとも、人間であれば本を読み、小説や文学に触れ、自分とは異なる多くの人々の人生の機微から、自分の感性を保ちたいものです。

九九%の私たちにとって、欠乏をもたらしているのは、資本主義なのではないか、と。資本主義が発展すればするほど、私たちは貧しくなるのではないか、と。(P234)

言葉は思考を限定します。頭の中で本当にいろいろ考えていても、それを伝えようとして言葉にすると、かなりの部分がそぎ落とされてしまいます。

言葉というものはそういうコミュニケーション手段であることをよくわきまえ、言葉以外のコミュニケーションでも補完しながら付き合うのが一番でしょう。

同様に資本主義は、価値観を限定しますね。世の中にはお金以外の価値観がたくさんあるはずです。

もちろん、お金を媒介に様々な価値観を評価するのも一手で、客観的にできるかもしれません。でも、価値観はそれこそ客観的なものではありませんからね。

資本主義においては本当に潤沢な人は1%程度であり、99%の我々は生活のために労働する必要があります。労働によってお金を得て、それで幸せを得ることができる、と。

しかしこれは資本主義がお金を価値基準とするからであり、ブータン国が国民総幸福量(GNH;gross national happiness)を考えているように、人間にとって何が幸福かを考えると、けしてお金があることだけではありません。

お金が無いことはもちろん字面通り“貧しい”状態でしょうが、そう考えざるを得なくさせている資本主義自体が、人間にとっては“貧しい”思想・体制なのかもしれません。

だから、何℃の世界にしたいか、そのためにどれくらいの犠牲を払うのかというのは、私たち自身が慎重に決めなくてはいけない。これは、科学者にも、経済学者にも、AIにも、任せられない民主主義の問題なのである。(P274)

医療でも、自然科学的に行われた研究結果をそのまま目の前の患者に適用できるのか、と引っかかることがよくあります。我々はそれほど機械的に患者さんを診ているわけではありません。

自然科学的なエビデンスに基づいた医療(EBM;evidence based medicine)が大切と言われています。一方で、患者さん個人個人の考えや生き方、家族の想いなどを勘案した医療も大切です。

ましてや慢性疾患、治らない疾患もあるなか、ときには患者さんの感情、心情、事情も組み入れることが必要です。こ

ういった流れを「物語性」を大切にした医療ということで、NBM;narrative based medicineという言葉で聞かれるようになってきました。

世の中も同様で、そういった感情、心情、事情を勘案した政治や経済、環境対策などを実施してほしいものです。

しかし、それら感情などはとてもとても、たまにしかない選挙の一票に込められるものでもありません。

一方で、それらがタイムリーにたくさん散りばめられているのが、SNSなどネットの世界だと思います。ときに炎上してしまうような激しい内容もあり、一瞬で衆目の集まる“トレンド”もあります。

SNSはある意味現代の集合知、あるいは集合的無意識だと思います。それをうまく活用して民主主義を行おうという成田悠輔氏の「無意識的民主主義」は、一つの妙案と思われます。

『22世紀の民主主義』の紹介記事もご参照ください)

それに対してマルクスは、労働を忌避すべきものとはまったく考えていなかった。むしろ、「労働が魅力的な労働、言い換えれば個人の自己実現であるための主体的および客体的な諸条件」を獲得し、創造性や自己実現の契機になることを、目指していたのである。(P307)

仕事というと、生活のための収入を得るためにやむを得ずしていること、というイメージがあります。だから、少しでも自分に合った、自分が好きな仕事をできるように苦労するわけです。

でもこの、自分に合うとか好きとかいうものは、ある程度仕事を続けないと分からないこともあります。避けがたい境遇により不本意な仕事に就いたとしても、続けているうちに面白さややりがいを感じることもあります。

ただ、そう感じるためにはいくつか考え方のコツがあると思います。「責任」という考え、「仕事の報酬」は何かという考え、そして「職人」という考えです。

「責任」というと、これまたネガティブなもので、できれば避けたい、負いたくないと感じるものです。でも、考え方によっては自分でその仕事をどうこうできるという舵取りの権限でもあります。

もちろん、それで失敗したら、それこそ責任をとる必要もあるかもしれませんが、そのときはそのときです。

「責任」をネガティブ一辺倒と考えず、「自分がやります! 自分にまかせて!」という気概のようなものと考えると、仕事も能動的になり(農奴的ではなく)、やりがいも湧き出すでしょう。

また、「仕事の報酬」というとお金が第一に思い浮かび、それだけが仕事の目的のように感じてしまいます。でもそうではありません。仕事の報酬はお金以外にも知識、技術、成長、人間関係、新たな仕事や境地など、さまざまあります。

しかし資本主義の社会では、仕事は賃金を得るための手段に成り下がっている気がします。自分の希望や好きなことをするには、まずそれをするためのお金を稼ぎなさい、と。

マルクスの言う仕事はそうではなく、仕事のなかで自分の成長や自己実現を発揮できるようなものなのだと思います。

そんな仕事ができている状態、それが「職人」ということだと思います。「責任」をまとい、仕事を通じて自分を成長させ、ついでながらにお金という報酬の一つも受け取ることができます。

職人の仕事は生活の中でも磨かれ、生活の気付きがまた仕事に応用される。そこにはワーク・ライフバランスなどという天秤すら存在しません。

これこそ、ケア労働が「使用価値」を重視した生産であることの証である。

・・・こうした特性から、ケア労働は「感情労働」とも呼ばれる。ベルトコンベアでの作業とは違って、感情労働は相手の感情を無視したら、台無しになってしまう。だから、感情労働は、ひとりの労働者が扱う対象人数を二倍、三倍にしていくという形で生産性を上昇させることができない。ケアやコミュニケーションは、時間をかける必要がある。そしてなにより、サービスの受給者が、スピードアップを望んでいない。(P313)

希少性やブランド化によって附随する「価値」は、実際に使用に役立つか、耐えるかという「使用価値」に比べて必須ではありません。でも資本主義では前者が目指されます。

そういった中で医療という仕事は、ひたすら後者が必要な仕事だと思います。なにも医者の顔が良い必要はありません(人によると思いますが)。知識や技術、人間力など医者としての「使用価値」が必要です。

そして何より人間相手の仕事はすべてそうですが、相手の「感情」を考えることが必要ですよね。このあたりは、いくらAIでも難しいところだと思います。

また、例えば製造業や経理など直接的には人間を相手にしない仕事であっても、その見えない先にはこの商品を手にする人間がいる、このサービスが役立つ人間がいるということを想像して仕事ができるといいですね。

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「人類」がもたらした「人新世」ですが、どのような時代区分になるかもまた、「人類」しだいだと思います。

後の生命体がプラスチックの堆積した地層を発見して「ひどい時代があったものだ」と思うか、我々の子孫が「ちょっと危なかったけど考え直してがんばった人類変革の時代だった」と教育されるか。

今を生きる我々しだいなのです。

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