雑音の利

夜のピクニック 恩田陸 新潮文庫

歩くのは好きだ。けっこう長い距離でも、時間があれば歩いて移動することも多い。駅まで30分歩いたり、研究会の会場まで40分歩いたり。

考えてみると自分は昔から、歩けそうな距離であれば、いや普通歩かないでしょという距離でも歩くことを選択する人間だったのかもしれない。

この作品は、“歩行祭”と呼ばれる長距離を歩き通す行事のある高校で、その歩行中に浮き出される人間関係を描いたものである。

次々と物語に加わってくる登場人物と長い時間経過に、読者も一緒に歩いているような感覚と、少しの疲労を覚える。

しかし、読了後には登場人物たちと一緒に歩き切った達成感を感じ、彼らと同様に歩く前の自分とは少し変わった自分になったことを感じるだろう。

自分も中学校のとき、20㎞を歩く行事があった。距離はずっと短いが、本作の“歩行祭”と似ている。前日から宿泊施設に泊り、翌朝早くに出発して昼ごろに到着する。朝はバナナ1本と牛乳を支給された。あとはグループになったりならなかったり比較的自由に田舎道を学校まで歩いた。

当時はまだ歩くことの意味をまったく考えていなかった。だから、単なる「ツライ行事」という認識をもっていた。そもそも運動に対して苦手意識があり、野球やサッカーなど“少年っぽい”スポーツもしていなかったので、とかく運動系はキライだった。

そのとき何を考えながら歩いていたかは覚えていない。でもその経験があったから、「自分はそのくらいの距離を歩くことはできるのだ」という自信を持ったと思う。

高校のとき、大雪のため通学に使っていた列車が運休となった。学校まで自宅から15㎞ほど。バスはあるが本数は乏しい。

列車が運休になるくらいの大雪なのだから、常識的には学校も休校と考えてよさそうでもある。しかし何を考えたのか私は、歩いてみた。雪は積もっていたが、太陽が輝く晴れた冬の日であった。

途中のことはよく覚えていない。でも、ただ淡々と歩いていたと思う。普段は列車から見る風景のなかを、自分の脚で歩いて行く。雪道で歩きにくかっただろうに、今考えてもそんな自分に感心すると同時にあきれる気持ちもある。

学校に着いてみると案の定、休校となっていた。居合わせた教師に歩いてきた旨を伝えた。感心された。うれしかった。

高校の本業としては、成績はそこそこかもしれないが、部活はサボり気味、ついには学校もサボり気味で灰色の印象。でも、そんな日の太陽のような明るい記憶もあった。

紆余曲折を経て大学に入った。縁あって早朝の勉強会に出席するようになった。普段は自転車で10分ほどの通学であったが、雪が積もると自転車は使えないので、歩いた。

早朝のため歩道はまだ除雪されておらず、先に歩いた人の踏み跡もなく、ただ積雪を踏み分けながら歩くしかなかった。段差に足をとられないように、側溝のグレーチング(金属製の網状のフタ)で滑らないように気を遣い、歩を進めた。

そんなときに頭の中に流れるのは、ファイナルファンタジー6のオープニング曲である『予兆』であった。「つらいけどがんばろう」的な雰囲気が、雪の中を一歩一歩進む両足にマッチしていた。

たどり着いた教室で勉強会を主催する教授が聴いているイヴ・モンタンの『パリの空の下』も、記憶に残っている。

歩くメリットはいろいろ言われている。まず運動として身体に良い。運動はストレス解消につながり、心にも良いだろう。おそらくいつでも、ウォーキングは心身に良い。

それもそうだが、“思考する時間”としても歩く時間は貴重だと思う。昔の人も歩いて考えた。西田幾多郎然り、アリストテレス然り。

ヒトはサルから進化して二足歩行を始めたことにより、かつての前脚つまり手による道具の使用が可能となった。道具を作成し、使用する繊細な運動を要する手は、脳の発達にもつながっただろう。

さらに、多少は身体運動が忙しく脳みそに余裕のないときのほうが、普段の理性的な統制が緩んで無意識からの考えや記憶も湧きだしてくるのかもしれない。同時に、運動しながらの会話や経験はより無意識への取り込みがなされやすいのかもしれない。

クリエイティブな思考というものは、脳みそだけで行われることは少ない。無意識という引き出しでアイデア出し入れするには、ある程度身体を動かしながら思考することも一手なのだろう。

だけどさ、雑音だって、おまえを作ってるんだよ。雑音はうるさいけど、やっぱ聞いておかなきゃなんない時だってあるんだよ。おまえにはノイズにしか聞こえないだろうけど、このノイズが聞こえるのって、今だけだから、あとからテープを巻き戻して聞こうと思った時にはもう聞こえない。(P189)

私の場合はたいてい独りで歩いていたが、この物語のように歩きながら級友と話を交わしたり、疲労や痛みなどで極限状態に陥ったりする経験はまた、一生の記憶となるだろう。

学校行事は、よく考えると不要な感じがしたり、苦労を強いるだけのように感じたりすることも多い。私の経験したような歩く行事だとか、体育祭、文化祭、などなど。楽しい人には楽しいのかもしれないが、楽しくない私には楽しくない。

でも、場合によってはサプリのように知識を頭に詰め込むだけになりがちな学校生活に、そういう人間臭いイベントがあっても良いのかもしれない。

また、大変な経験ではあっても、どれか一つでも後生の記憶に残る体験となれば、との教育的な考え方なのかもしれない。

想えば雑音だらけの、けしてスタンダードでない生き方をしてきたと自覚する。とくに高校時代はそんな感じだし、予備校などと雑音的な人生の経路をたどってきたとも感じられる。

しかし、今となってはそういった人生の一片を、まったく余計な雑音とは思わない。いや、雑音やノイズと呼んでもよいが、それはそれで人生の良いスパイスになっていると確信する。

昆虫の触覚は持ち主の命に関わる感覚器官であるため、鋭敏さが求められる。その感覚神経に流れる電位には、平常時にも微弱な電位の雑音的なノイズ的な波が発生しているらしい。

そういう状態であることにより、わずかな刺激でもそのノイズの波と重なり、高い電位変化として感知されるという。

雑音のような人生を過ごしてきたということは、今の人生にもその余波が通底していると思う。その効果で、人生の悲喜交々をより鋭敏に感じとることができているのではないか。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。