書くということ

書く仕事がしたい 佐藤友美 CCCメディアハウス

「書く仕事」で生きていくことができればいいなあ。そう思うことがあります。もちろん、我々の仕事でも論文を書いたり様々な文章を書いたりすることはあります。

でも最近、こういったブログ記事なんかを書いていて、書いているうちに次第に自分の頭の中が言葉によって引き出されてくるのを、楽しく感じるようになってきました。

かといって、書く仕事が楽そうだとか楽しそうだとか思っているのではありません。どんな仕事も楽しいこともあれば大変なこともあります。

ただ、他の仕事について実際の仕事内容や収入、生活については分からないことが多いものです。もちろん、その仕事についてから分かることもあります。

そんな中でこの本は、ライターという仕事、書く仕事についての理解を、存分に進めてくれました。

さらに「書く仕事」だけでなく、「書くこと」や「言葉」のさまざまな特徴や効果を改めて感じさせ、また深めてくれた一冊です。

(太字は本文によります)

それでも、その人の話と世界との接点を探り、どの接地面で原稿を書けば一番面白くなるかなと考えるのが、ライターの仕事だと私は思っています。(P58)

まず、「書く仕事」といっても色々あるようです。著者のような「ライター」や、小説家、脚本家、エッセイストなどなど。

そのなかでライターというのは、外部の主題をもとに文章を作る仕事であり、インタビューなどから取材して、それを元に執筆するようです。

そのさい、聞いたこと見たことをそのまま文章化しても、それもまたジャーナリストや記者の仕事としては大切ですが、面白くありません。

そこで、ここで述べられているように「話と世界との接点を探る」、つまり取材した話が、世界とどう関わっているのか、どう関わらせると面白いのか、を大切にする。それがライターの仕事なのです。

私もブログの書評については、話のネタや主題としては読んだ本からいただいていますが、文章はその内容を通して私が考えたことや、自分の解釈したことを書かせてもらっているつもりです(だいぶ逸脱することも多々ありますが)。

いただいた話を、どう世界と関連づけるのか、その話を切り口として世界をどう見るのか、という話が、面白いのだと思います。

書いているときに初めて、「ああ、こういうことを話していたのか」と気付くことがあるのです。

聞くだけでは到達しない場所に、書くことによって手が届くんですよね。(P89)

言葉の“使いみち”としては「話す」「聞く」「読む」「書く」があるでしょうか。他にも記憶の手段であるとか、遊びの道具(しりとりなど)ともなります。

「話す」と「聞く」はもっともポピュラーな使いみちかもしれません。言語も文字といった”書き言葉”よりも”話し言葉”が最初に出現したのでしょう。

ただ、話し言葉は録音でもしていなければすぐに空中に消えます。話したことは自分の耳に入ることである程度フィードバックされますが、それも一瞬のことです。

さらに、話しているときはたいてい矢継ぎ早に言葉の応酬や、時間経過もありますので、じっくり考えながらというのも難しいものです。

一方で、書いたものは半永久的に残りますし、書くことはほとんどの場合、これを書いている今もそうですが、一人でじっくりとできるものです。

もちろん、インタビューなどで話を聞きながらメモをとる、会議の記録をとる、あるいは締め切りに追われている、などという場合にはまた違います。

でも一般的に「書く」という行為は比較的落ち着いてできるものではないでしょうか。書いて、見直したり推敲したりすることもできます。

それだからこそ、「書く」ことによって、手で空間に文字を定着させ、定着した文字を何度も見ることによって、あるいは確認のため読み直すことによって、記憶が手繰られたり新たな発想が無意識から引き出されたりする「気付き」が生まれると思います。

聞いたことを文字に起こして文章を作るだけであれば、昨今の音声入力やAIでも上手いことやってくれます。

それだけではなく、著者独自の気付きや、話をしてくれた人が言いたかったこと、そうでもないけれど世界の接点としては面白い解釈になること、に気付き、引き出し、世に著すということは、人間だからこそできる仕事だと思います。

つまり、ライターの仕事=言語化のお手伝いをすること。言語化のお手伝いということは、すなわち、取材相手の思考を推し進めることに他なりません。(P179)

ライターの取材は、相手の言葉に耳を傾けるだけでは全然足りなくて「聞いた」言葉を「問い」をもってして深める作業が必要なのです。(P181)

言葉は前に述べたように様々な使いみちがありますが、「記憶や思考を掘り出す」という効果もあるでしょう。

「傾聴」も、共感しながら聴き入ることにより、相手のより深みにある言葉を引き出す手段ですが、こちらから適切な言葉を投げかけることによっても、相手の記憶や思考に一石を投じ、眠っていた、あるいは新たな言葉を引き出すことができます。

そうすることによって取材相手の記憶を引き出し、思考を耕し、より面白い話をしてもらったり、相手の人間性に富んだ話題を提供してもらったりすることができるのです。

そのときに大切な考え方が「問い」ですね。いわゆる5W1Hを基本として、相手の特性を生かした問い、あるいは自分の立場を活かした問いができればと思います。

この話がでてくる部の表題となっている「inter(はざま)」を「view(見る)」という言葉ですが、まさに言葉を用いて相手の言葉を引き出し、その言葉から相手の頭の中を描き出し、再構築することを上手く表現していると思います。

これは、読書における「行間を読む」にもつながる考え方ですね。読書においては文字の表す意味以上に行間を読むことにより、さらに楽しく本を読むことができます。

つまり、視点か視座、このどちらか(両方でも良い)が面白ければ、面白い原稿になるのではないかと思ったのです。(P316)

社会や人間、病気など“得体のしれないもの”を相手にするには「切り口」が大切です。良く分からずに体当たりしても、得られるものは少ない。

社会に対しては、人間は様々な仕事や立場で切り口を作って対応しています。医者であるとか、営業であるとか、小説家であるとか、家事や育児であるとか。それぞれの仕事や役割で社会を切り、見ているわけです。

病気に対しても、様々な診察や検査のどれを切り口として実施してみようかと考えます。あるいは内科医としての立場、外科医としての立場など様々な切り口から病気に対峙します。

文章というのも、この「切り口」が大切であり、切り口を作るために必要なのが、この「視点」と「視座」なのだと思います。

「視点」は対称のどの部分に対して注目するか、「視座」は自分がどのような立場で対象を見るか。

視点を定めることにより、対象をその視点とそれ以外の全体で比較して「観る」ことができます。

また、視座を定めることにより、対象への眼差しを自分の視座をそれ以外の視座から特徴づけて「観る」ことができます。

視点と視座を定めることにより「切り口」が設定され、対象に面白く切り込むことができるのです。

あるいはもしかして、そういった数多くの「切り口」が接線として集合し浮かび上がらせるものが、“得体のしれないもの”のおぼろげなカタチなのかもしれません。

つまり、言葉の表現力が豊かなほど、体験が増える?

それとも、いろんな体験をすると表現が増える?

・・・文章を書くことは、確実に「世界を狭める」ことだとも思っています。言葉にすることで、元の経験を固定化してしまうし、物語にしてしまう。これが、ことばの良いところであり、注意しなければいけないところです。(P327-328)

医学部で身体の構造を勉強する「解剖学」の要点は、まさに身体の各部分の名前、つまり言葉を覚えることにあります。

名前を覚えることにより、身体を部分部分に分けていくのです。ウデというものが、手や指、手首、前腕、肘、上腕、肩、あるいはそれ以上に細分化されていきます。そうすることにより、なんとなく身体の地図が頭の中にできてきます。

この世界や社会も、名前つまり言葉を覚えることにより、なんとなくつかめてくる気がします。子供のころは分からなかったことが、大人になると分かってくる。

それは、学校での勉強や日常において色々な物事の、それまで知らなかった言葉を知ることによって進んでくると思います。

また、言葉の表現力が増えるほど、体験も鮮明に記憶に残りやすくなるでしょう。

ある一つの美しい風景を見た体験にしても、ただ「きれいだった」だけよりも、「今まで見た中で最高の景色だった」「これまでの日常での鬱屈が一掃されるような見晴らしだった」とかなんとか表現できたほうが、体験としては残りやすいと思います(あまり言葉を弄するのもあれですが)。

夏休みの絵日記や修学旅行の感想文などは、ちょっと面倒くさい気はしましたが、体験を言葉にすることにより、より鮮やかに繊細に記憶に残そうという試みなのかもしれません。

逆に、言葉にすることによって、あとから見たらその経験はそんなものだったと限定されてしまうこともあります。文字は残りますが、記憶のほうは、残念ながら擦り切れ、衰えます。

もちろん言葉は読者の解釈でいかようにも広がりますが、言葉の良いところ、注意点をよく弁えて扱いたいものですね。

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言葉同士が、なんというか、醸し出すというか、雰囲気のようなものがあると思います。

それは文字では書けない。ムリヤリ表記するとすれば、記号や顔文字、擬音・擬態語などでも代用できるのかもしれませんが、それで表記してしまうと、そこだけに収束してしまう。

そうではなくて、文字としては著されていないけれど、言葉の上に漂う、読者の眼球と本の紙面との間、あるいは頭の中に湧き出す、なにかが。

欧米の文字はアルファベットのように多くても数十個の文字や記号からなります。一方、日本語はひらがな、カタカナ、漢字と多様な文字を使います。

数学的に文字の数から言葉として組み合わせるパターンを計算すれば、後者が多いというのはもちろんです。

しかし、漢字といった象形文字の要素を含む文字を使うからでしょうか、文字が表す以上に意味の“渦”や脈々とした“流れ”のようなものが、日本語の文章の上空、あるいは行間に存在するのを感じます。

そういったものを醸し出す文章を作ることもまた、良い文章書きの目指すところなのかもしれません。

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