世界を造り、自分を造る「言葉」

ことばと思考 今井むつみ 岩波新書

「言葉」が違うと思考も違ってくるのか。日本語をしゃべる日本人と英語をしゃべるアメリカ人は考え方が違うのか。あるいは英語を覚えた日本人は考え方が変わるのか。

そんな疑問がありました。

藤原正彦氏の著書で『祖国とは国語』という本があります。国語が自分のアイデンティティに大きく影響すること、そのため国語教育が重要であることが述べられていました。

『祖国とは国語』の紹介記事もご参照ください)

また、「言葉」の違いが世界の見え方の違いにつながるという話もあり、『言語が違えば、世界も違って見えるわけ』(ガイ・ドイッチャー 早川書房)という本があります。

その本では、ホメロスの叙事詩『イリアス』や『オデュッセイア』において、海や牛の色が「葡萄酒色」と表現されていたことから、言葉と思考の関係についての話が始まります。

昔の人は目や脳の視覚機能が今と異なっていたのか。昔は空や牛が「葡萄酒色」をしていたのか。

そんなことはなく、世界に様々な色があって見えても、それぞれの色を呼ぶ「言葉」がなければ、その色を認識できないという話に落ち着きます。

虹の色の数がいくつあるかが、国や地域によって異なるのも、同じことのようです。

その本を読んで、さらに今回ご紹介するこの本を読むと、言葉と思考との関係について良く理解することができました。

この本は、こういった「言葉」の面白さとともに、「言葉」は世界を広げてくれることを実感させてくれる本です。

そして、「読書」は「言葉」を仕入れて自分の”思考の庭”を育てる良い手段であることを、改めて感じました。

色に関しては、かなりゆっくりと言語特有のカテゴリーが形成され、カテゴリー知覚ができあがっていくと考えられる。(P131)

たとえば赤ちゃんは基本的な色である白、黒、赤くらいしか認識ができないらしいです。

そういえば、うちの子供にも、赤ちゃんの時に初めて見せる絵本として『あかあかくろくろ』(柏原晃夫 学研プラス)といった赤、黒、白がメインの本を選んでいたことを思い出しました。

この三色は、ヒトが最も認識しやすい色だそうです。赤ちゃんでも認識しやすいその三色に、「これは赤、これは黒、これは白」といった具合に「言葉」を付与していく絵本だったのですね。

色の名前を覚えることにより、その後さらにクレヨンを使ったり花など植物や映像などをみたりすることにより、次第に緑や黄や青などを認識し、世界の色彩と多様性が増えてくるのです。

逆に、色々な色を見ていてもその色の名前を知らないままであれば、「あの時見た花の色」「幼稚園で食べた果物の色」などと具体例としてしか記憶に残らず、他のものに応用することができないのでしょうね。

人は言語によって、まったく違うモノによる、見た目はまったく異なるモノ、出来事、事象を「同じモノ」「同じ事柄」として認識し、イメージを共有し、互いに伝え合うことができるようになるのだ。(P176)

成長に伴って、そして読書や勉強によって「言葉」が増えてくると、自分の頭の中の思考が扱いやすくなります。

思考は主に「言葉」で行われています。白と黒をまぜるとどうなるか、何か白と黒の中間の色ができあがるでしょう。

これが「言葉」を用いないで想像するだけだと、まあ想像はできますが、次に生かすことがなかなか難しい。

そこで、その色を最初は教えてもらったり本で見たりして例えば「灰色」というのだと理解すします。そうすると、次に同じような色に出会った場面で、その「言葉」を使うことができます。

同じ灰色であっても、暗い灰色もあれば明るい灰色もある。暗い灰色は曇り空の雲の色だなとか、明るい灰色は家のシーツの色だなどと、応用がきくわけです。

灰色という言葉があれば、他人の灰色と自分の灰色とはちょっとはイメージや背後に背負う知識、経験は違うかもしれませんが、どうにか話を合わせることができます。

このようにして、様々なグラデーションのある事象を「言葉」にある程度まとめることにより、多少の齟齬はときどき生じても、コミュニケーションで世を語り合うことができるのです。

言語は、私たち人間に伝達によってすでに存在する知識を次世代に伝えることを可能にした。しかし、それ以上に、教えられた知識を使うだけでなく自分で知識を創り、それを足がかりにさらに知識を発展させていく道具を人間に与えたのだ。(P183)

そして、今度は「言葉」のほうが様々な物や事柄と紐づくこと、意味をかけもちすることもあります。

色にしても、“赤”といってもリンゴの赤もあれば赤錆びの赤も、信号の赤も、血液の赤もあります。

場合によっては“共産主義”を思い出す人もいるかもしれません。

信号の赤という「言葉」になると、“止まれ”や“危険”、歩行者や横断歩道などなど色々な言葉と紐付いています。

信号の“進んでも良い”色を実際は緑のところをアオと呼ぶのも、“緑の黒髪”などといってなんとなくニュアンスが伝わるのも、「言葉」が広い範囲をかけもちし、意味を共有し、思考としては納得しているからでしょう。

さらに、「言葉」は用いるたびに、あるいは聞いたり読んだりするたびに自分の中にもともとあった「言葉」と比較され、自分の中の「言葉」を修正します。

教えられた、あるいは学んだ知識は「言葉」として記憶され、思考するとき折にふれて用いられます。

「言葉」を用いる経験から上手くいった場合、上手くいかなかった場合を考え、徐々に自分の思考が磨かれていくのです。

思考の定義に、意識化できる知識や意識的に行われる推論、意識決定に限らず、認知活動すべてを含めて考えるのなら、言語の学習や言語の処理に必要な情報処理システムという観点からも、異なる言語の話者の思考は違うといってよいだろう。(P220)

言語が違うと、思考が違うのか。違うのです。

思考は「言葉」を用いる作業であり、「言葉」無しの思考はなかなか難しいと思います。(一方で、芸術は「言葉」無しで通用する世界なのかもしれません)

そして、言語によってカバーしている言葉や、文法の違いがあります。そういった違いが、その言語の話者にも思考の違いを生み出します。

たとえば英語を学ぶこと。これはたんに英語を読めるように話せるようになるというだけではなく、英語という言語をベースにした思考を導入することに他なりません。

まあ、よほど英語に習熟しないと、そこまでは達しないかもしれませんが、例えば“a”と”the“の違いや単数、複数の厳密な使い分けなど、日本語ではそれほど気にもしていなかった考えかた、ニュアンスが、英語になると浮き立って感じられることもあります。

さらにフランス語やドイツ語をはじめ多くの言語にある名詞の“性”、自動詞、他動詞の厳密な使い分けなど、こういったことは、やはり自分の思考に影響を与えそうな気がしますね。

自分の言語・文化、あるいは特定の言語・文化が世界の中心にあるのではなく、様々な言語のフィルターを通した様々な認識の枠組みが存在することを意識すること—それが多言語に習熟することによりもたらされる、もっとも大きな思考の変容なのだと筆者は考える。(P223)

ですから、外国語を学ぶということは、なにも英文が読めるとか外国人と話せることだけではなく、その言語の思考を自分の頭に導入することにもなります。

これは、勉強や読書などで「言葉」を仕入れるだけとはまた違ったことです。

「言葉」の仕入れがソフトウェアの充実とすれば、新たな言語による思考の導入は、ハードウェアの更新やOSの変更のようなものかもしれません。

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「言葉」は会話やテレビなどのメディア、読書や勉強によって頭の中に入ってきます。そして元々頭の中に先住していた知識や経験、あるいは解釈や考え方によって加工され捉えられます。理解ってやつですね。

さらに、頭の中に貯まった「言葉」とその使い方、そしてそれぞれの「言葉」のつながりや紐付き方が、その人の思考を形成していくのです。

語彙の種類や文法的な考え方は、そのままその人の思考に影響します。だから、外国語を学ぶことは、それまでとはまた違った頭の使い方=思考を創り出してくれるのです。

卑近な話ですが、そういった意味でも”言葉遣い”は大切ですね。乱暴な「言葉」ばかり使っていると、乱暴になってしまうかもしれません。

さて、今は小学校から英語を勉強するようになっています。我々の時分は中学校からで、主に文法や読解が中心でした。

小学校のときから英語を勉強することについては、賛否両論あると思います。

『祖国とは国語』の話のように、しっかりと自国語をまず学び、自国語なりの思考を頭の中に構築することも大切です。

でも、会話やリスニングも備えた英語を小学校のうちから頭にそよがせることも、英語の実用的な習得以外にも、思考を幅広くする効果があるのかもしれませんね。

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