「言葉」の深みへ

2022年8月6日

生きていくうえで、かけがえのないこと 若松英輔

若松英輔氏を知ったのはテレビ放送の「100分de名著 西田幾多郎 善の研究」であり、そのテキストが最初に拝読した氏の著書でした。

『善の研究』については、存在は知っていたものの、まったくとっつきにくく難解な書と感じていました。しかし、氏自身のコトバによる解釈と優しい語り口で解説していただき、「あ、こういう本だったのだ。こういうことを言っているのだ」と感じさせてくれました。

もちろんその時感じたのは、『善の研究』のほんの入り口だけだったかもしれません。しかし、その「入り口」さえも見つからず周辺をウロウロしていた私に、入り方と歩き方を教えてくれたテレビ放送と本でした。

氏の著書を手助けに『善の研究』そのものについても、しっかりと読むことができました。おびただしい数のフセンが付き、どの箇所も昨今の様々な哲学に通じていると感じることができました。

私の”西田哲学”突入のきっかけともなっております。

さて、このブログでも氏の本については以前、『本を読めなくなった人のための読書論』を紹介いたしました。

濫読気味の私が、数をこなすような読書をしていると、「これでいいのか」と行き詰まってしまうことがあり、そんなときに出逢った本でした。

他の著書としては、『井筒俊彦 叡智の哲学』『読書のちから』『14歳の教室』を読ませていただきました。

まさに「言葉」よる芸術である「詩」にも通じておられ、詩集も出されている他、「言葉」にまつわるエッセイ集を数多く出版されています。

氏は、著書やTwitter 記事などの発信を拝見しても感じますが、非常に「言葉」を大切にしておられます。

とくに音声言語、文字言語としての「言葉」を超えた、様々な形のコミュニケーション手段や伝達手段として幅広くとらえた「コトバ」を重視していると思います。

この本では、我々が何の気なしに日常生活でとる行動、思考に関わる「動詞」について深く考察し、まさに“生きていくうえで、かけがえのないこと”と捉えて解釈、解説してくれています。

「言葉」に興味のある方、「言葉」の可能性を深く感じたい方、より深く日常生活の機微を感じたい方にとって、この本は一読の価値があります。

私はいずれも該当しますので、氏に私淑し今後も著書を読み進めるとともに、この本はぜひ手元に置いておきたい一冊と感じました。

そのコトバに捕まると、読者はたちまち暗い海の底まで引きずり込まれてします。しかしその深海の中には、その暗さでしかみることのできない光が必ず用意されている。その光が、実に限りなく優しい。そんな読書体験なのだ。(P3)

この本では「眠る」「食べる」「出す」などの25個の動詞をテーマとして、著者がご自分の経験や深い考察と共に古今の文献を添えて解釈を深めてくれています。

同じ「動詞」について、同時に吉村萬壱氏も並行したエッセイをお書きになる企画が元となったらしく、そちらもぜひ拝読したいと考えております。

その吉村氏による“まえがき”の文章です。

ここにある通り、著者は我々が日常的に表面的に使っている「動詞」についても、その深みに連れていってくださいます。

しかし、闇の中でこそ光はかがやきを感じられるものであり、「そんな意味もあったのか」と感動するような言葉の体験を与えてくれます。

この本を読むことは、そんな読書体験に満ちた旅となります。

手を動かさなければ文字を書くことはできないが、ペンを握っていないときも、さらにいえばペンを握ることができないときにこそ、言葉が内なる世界に宿り始めるのを実感する。書くとはそれらを、目に見える世界に浮かび上がらせることにほかならない。(P28)

ヒトは1日に何万回も思考を行っていると言われます。頭の中では、さまざまな思考が渦を巻いています。そして現れては瞬時のうちに消えてしまうものが多いのでしょう。

そんな不安定な頭の中の思考をカタチあるものにすることが、“文字”にするつまり書くことだと思います。“声”として世に出せば、聞いた人の頭にも届き、残る可能性がありますが、声自体は一瞬で消えるものです。

なかなか書けないときがあります。こういったブログにしてもそうです。そんなときは、「書けない」でもなんでもいいから筆を進めてみるという方法もあります。

しかし、ここで述べられているように書けないときは、ちょっと筆をおいて休んでみて、頭の中の内なる世界で言葉が熟成するのを待つことも、一手かもしれません。

うまくなど書かなくてよい。本当に心に宿ることを、手でなく、心で書けばそれでよい。どう書くのかと質問されると、今は、こう応えている。

これが、自分が書く最後の文章だ、と思って書くことだ。(P33)

手と口は、ヒトで非常に発達しているようです。聞くところによると、脳のうちで手や口の運動を司る部分が、他の部分よりも相対的に大きくなっているとのことです。

手の働きっぷりについては以前にも、『脳を宿す手』の紹介記事にも書かせていただきました。まさに手は口と並ぶ、脳の先鋭部隊と言えます。

上で述べた、“書けないときは「書けない」とでも書く”という方法は、手が書けないところを、頭から心から引きずり出してくるような行動かもしれません。

何かしら少しでも流れを作ることで後からついてくるように、あるいは詰まりがとれたように、書くことが出てくるかもしれません。

そして、“これが、自分が書く最後の文章だ、と思って書くことだ”という覚悟は、言葉と書くことを深く考える著者ならではの、箴言だと思います。

恥ずかしながら自分は普段、そこまでは考えて書いていない気がします。

書くことのコツによく、“想定読者を設定する”ということも言われます。いずれにしても自分の渾身をもって書く、届けたい人に思いが届くように書くという態度が、出てきにくい頭の中の思考、心を文字として書くために必要なのかもしれません。

「さわる」と「ふれる」は違う。漢字で書くと触る、触れる、と同じ字を当てるが、語感の上から言えば、この二つの言葉にはむしろ、埋めがたい溝があるように感じられる。

さわる、にはどこか身体的な感覚があるが、ふれる、には何か目に見えないものに接する響きがある。(P34)

“語感”は、単なる“感じ”ではありますが、考えようによっては言葉を扱ううえでは重要な要素だと思います。

しかも我々が普段使っている、というか有難くも使うことができているこの日本語という言語は、ひらがな、カタカナ、漢字という膨大な数の文字を使うことができ、さらに象形的な要素を含む文字もあることから、字音もさることながら字面からの連想・想像に長じています。

「さわる」と「ふれる」は著者が言うように行動としては似ていますが、語感がまったく違います。「さわる」は触覚のイメージですが、「ふれる」は文中にもありますが心にふれる、魂にふれるといったように触覚以外のことにも使うことができます。

さらに私は、「ふれる」の語感として、「える」も感じます。届きにくいものに“触れ得る”という感じが。

遠慮や控えから届きにくい、届くのもはばかられるということもあるかもしれません。あるいは実際に触覚の対象ではない先述したような“心”、“魂”などが対象である場合。直接的に「さわる」ことはできませんが、様々な様式で達することが“できる”、“得る”という感じが「ふれる」には存在する気がします。

語感には言葉の深さとともに、広がりを感じます。幸いにも、こんな素敵な「日本語」を曲がりなりにも使えることに、有難さを感じます。

書物との邂逅は、人との出会いに似ている。時が熟していないと、言葉を交わす程度の接点はあっても出会いと呼ぶべき出来事にはならない。(P58)

本との出会いは、リアル/ネット書店での出会い、他人に紹介されての出会い、あるいはSNS上で見ての出会いなどがあるでしょう。

しかし、本は出合っただけでは自分に影響を及ぼしません。出会った相手が人間であれば、たいていの場合、向こうも何かしらの行動や思考をもちますので、放っておいてもこちらも出会いの影響を享受することができます。

しかし本に対しては出会ったあと、こちらから「読む」という積極的な行動が必要です。この積極的行動には、ある程度こちらの熟練も要すると思います。つまり、読書の力です。

私も、たくさんの本と出会ってきましたが、すぐに上手く付き合うことができて、なんらかの影響をもらった本もある一方、どうもとっかかりにくい人・・・いや本で、途中で音信不通になっている本もあります。

それでも、出会いは出会ったことも大切です。その後の経過はどんなカタチであろうとも、最初の出会いがなければ縁起もなにもありません。出会いはあるべくしてあったのです。

“本の読め方”は、こちらの知識や経験により異なります。実用的に言ってしまうと、読書の熟練度のようなものがあると思います。(『小説とのつきあい方』の記事もご参照ください)

今は読めないかもしれないけれど、出会いは大切にしよう。いつか読める日が来るまで、そっと待っていてもらおう。

そんな気持ちでときどき表紙や背でも眺めるでよいでしょう。

いつか、ある程度の知識と経験を積んで読んでみて、ナントカカントカ読めた時。あるいは以前読んでみてチンプンカンプンだったけど、時間が経って考えてみると、「あ、そういうことか」と気づいた時。

そんなときに、本との「出会い」は成就するのかもしれません。さあ、出会いを良い出会いにするために、読書を積みましょう。

・・・これは人間との出会いでも同じかもしれませんね。

働く意味を感じなおしてみるには、この言葉を「働き」という名刺にしてみるとよいように思う。死者は目に見える姿では働いていない。しかし、その「働き」はどうどうだろう。(P82)

目に見えるものと見えない物を意識することは大切だと思います。「働く」という目に見える行動ではないとしても、目に見えない「働き」は、それこそ目に見えないところで脈々と続けられています。

我々が日常生活を送るうえでも、社会制度やインフラなど目に見えない「働き」が底支えをしています。

それと同様に我々の精神面でも家族や職場など周囲の人はもちろん、先祖や私淑する人物などが、底支えしてくれていると思います。

歴史上の人物や先哲、そして自分の先祖。死者となった後も見えない、あるいは感じようとしなければ感じられない「働き」は、我々に糸を引いていると思います。

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広島原爆投下の日である8月6日。

年ごとの「儀式」を催し、再確認を継続すること。首長など代表により「言葉」にするということ。皆で「祈る」こと。

あるいはもう少し後に先祖のお墓参りなどをして、先祖を再認識すること。

そういった「行動」や「言葉」が、我々の頭の中に、脈々と続く“目に見えない「働き」”を実感させてくれます。

たとえ人の移動が難しい時世でも、心に想うだけでも、目に見えない「働き」の”窓口”を、きれいに保つことができると思います。

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