地獄の沙汰も「言葉」次第

2022年5月7日

地獄の楽しみ方 京極夏彦 講談社文庫

我々は「言葉」を用いてやりとりしています。しかし言葉には様々な制限、限界があります。

うまく言えない、伝わらない、話ベタ、勘違い、誤読。そう、この世界は言葉という使いにくい道具を使ってなんとか過ごしていくしかない、”地獄”とも呼ぶべき生きにくい世界なのです。

そこで、言葉とはどんなものなのか、言葉の性質を知っておけば、この世界も楽しみながらフンフンと過ごすことができます。この本には、それが書いてあります。つまり、”地獄”を楽しむ秘訣が。

私も最近、言葉について考えることが多く、その特徴と限界について思う所がありました。そんなときにSNSでご紹介いただいたこの本を読んでみました。

私が考えていた言葉についての印象を、確信をついて語ってくれています。

さすが小説家という感じで言葉について具体的に小説を中心として語られており、高校生相手の講義の記録のようですが、軽妙な語り口が再現されています。

京極氏のの小説はまだ読んだことがないのですが、ぜひ読んでみたくなりました。

僕がこれから話すことは、役に立つことではありません。

ただし、役に立てることはできます。(P8)

学校教育など教育の場で、「これが何の役にたつの?」という疑問は生まれます。算数はともかく数学なども、難解になってくるとつくづく思います。

“役に立つかどうか”と考えると、勉強している時点では覚えればテストの点数になるくらいで、実生活に役立つことはほとんどないでしょう。

せいぜい、算数、国語、社会、理科あたりは役立つこともありますが、詳しく知らなくても生きてはいけます。まして学校で学ぶことが全てではありません。

でも、ここで述べられているような考え方をするのも一手だと思いました。“役に立つかどうか”を考えても(現時点では)しょうがない。将来、“役に立てることができる”ものだと考える。

素材のようなものでしょうか。素材が直接的に将来仕事や生活に役立つかもしれないし、そうではなくても間接的に考え事の足し、橋渡しになるのかもしれません。

また、内田樹先生をはじめ多くの人がおっしゃるように、学ぶことにより新たな地平、トラックがみえてくるということもあります。

とかく点数に結びつかないとムダと考えがちですが、そう考えさせてしまう教育システムも問題はありますが、学ぶほうもこんな心構えで受けられたらと思います。

この本で語られている「言葉」についても、そんなに詳しく考えなくてもたいていの場合は日常生活に困ることはありません。

でも、「言葉」の性質を知っておくことで、将来困った、悩んだときに「そんなもんなんだ」と割り切って考えることができるかもしれません。

全ての言葉は多くを捨てて成り立っています。単純化するからこそ整理整頓ができるんです。(P22)

混沌というのは全てが入りまじっている状態なんです。その中の一部分を切り出したものが言葉です。そうするしか、混沌を言語化することはできません。(P119)

人は頭の中に膨大な思考を宿しています。でも人の頭をみていても、その中身の思考は見えません。

人の頭の中身を知るための手段が、様々な“アウトプット”であり、その代表が「言葉」です。他にもジェスチャー、感情表現、音楽、舞踏などいろいろありますが、もっぱら用いられるのは言葉であり、話し言葉と書き言葉でしょう。

ただし、引用に述べられたように言葉はその人の頭の中身すべてを表すものではなく、発する音声、記す文字数には限りがありますので、“多くを切り捨てて”います。

また、どうしても言葉にならないこともあります。その補助手段としてジェスチャーや表情、感情表現などがあるのだと思います。

頭の中身は複雑怪奇、モヤモヤしたまさに“混沌”です。そんな頭の中身を“単純化”してアウトプットしているのが言葉です。

そのため、“言葉にする”ことはそんな頭の中身の整理になります。

考え事がまとまらないとき、誰かに話してみたり、ホワイトボードに書き出してみたりと、言葉にしてみることで、頭の中身が整理されます。

もう一度書きます。何度も、何度も、何度も書き直します。それでも踏みとどまったりします。ある日、エイヤッと、どこかで背中を押して、だしちゃう。(P39)

書く言葉は文字として残ります。それに対して話す言葉は空気の振動であり、一瞬でこの世から消えてしまいます。

書くほうは、推敲して修正したり挿入したりすることができます。それに対して話すほうは、一度発して相手の頭に入ってしまうと、それを修正するには加えて説明や訂正を話す必要があります。

書くほうは納得がいくまでいくらでも修正できます。ともすればなかなかアウトプットができなくなってしまいます。

それで、〆切や更新目標日などを決めて、エイヤッとだしちゃうことが必要です。

「話すように書く」はよく聞きますが、「書くように話す」はあまり聞きません。私も話すのが苦手で、書くほうはなんとなくできているように思うので、「書くように話す」ことができればと思いました。

でも、書くことは上に述べたように十分に推敲の時間があるのに対し、話すほうは一瞬一瞬の出来事なのですね。

バラエティ番組などでテンポよく快活な話しのやり取りがなされているのは、ある程度編集も入っていると聞きます。

ふと考えたのですが、そういうのが「書くように話す」に相当するのかもしれません。

言葉は通じないんです。

だから、まずそれを承知で使いましょう。言葉とはそういうものなんです。(P41)

“言葉が通じる”とは、言葉を発した側の頭の中身が、言葉を受けとった側の頭の中でもそっくりそのまま再現されるということでしょう。

しかし、言葉は発した側の頭の中身のかなり整頓され切り取られた一部であり、それを受けとった側は自分の解釈で言葉を処理しますから、なかなか難しいです。

そういうものなんです。

言葉に中身をどれだけ加えるか。これは言葉を発したほうの自由であり、制限のつくものでもあります。

言葉に中身をどれだけ見出すか。これは言葉を受けとったほうの自由であり、制限のつくものでもあります。

すべての読書は誤読である(P54)

そもそも書き手の気持ちなんかどうでもいいんですね。書いてあっても伝わらないんですから。伝わる必要もないんです。さっき言ったように、それぞれが、読むことによって、紙背や行間から何かを汲み出し、それぞれの心の中にすばらしい物語を生み出せる、そうした作品であるならば、それは傑作なんです。(P55)

実用書、ビジネス書などは、本を読んでその内容を理解し取り入れることが大切です。できれば実践につながるとなお良いでしょう。

それに対して、小説、物語というのは、これこれこんな話がありました、と「素のお話を知ってオシマイ」ではないのです。

こういう物語があった。読者はその物語を自分の中身の知識、記憶、経験とおりまぜて解釈します。字として書かれている素の物語以上のものを、行間に紙背に感じ取ります。

古典というものは、その時その時の人、時代背景に応じた解釈でいかようにも人間の生き方に役立ち、示唆を与えてくれるものだと思います。

それと似ていて、すぐれた小説は読者の境遇、心境に応じて文章の内容以上の物語を感じさせてくれるものだと思います。

SNSは情報だけで成り立っている仮想の場、現実ではありませんね。だから言葉ひとつでどうにでもなる。つまり、言霊の効き目があるステージなんです。(P130)

メールやSNSなどは言葉で成り立っている世界です。言葉が力を持って、言葉の威力だけが趨勢を決める。まさに“言霊”の世界を体現していると言えます。

言葉だけでの勝負の世界。一方そこでは受け手にとっては中身がないと感じられる言葉、逆に想定以上に解釈されてしまう言葉もあります。

前者について、言葉を発した人の頭の中身をすべて言葉に注ぎ込むことはできません。受け手もそれを理解して、適宜追加情報を得るようにするとよいでしょう。

受け手の知識、解釈力、考え方の幅がいま一歩なのかもしれません。もちろん、言葉が足りないこともあります。

後者について、しばしば“炎上”の原因になります。「本当はそんな意味で書いたわけではないのに」というように。

言葉は発してしまうとまな板の上の鯉のように、あとは受け手がどう調理するかによります。同じ言葉でも相手の境遇や心情により異なる解釈がなされます。

うまく調理してもらうために、言葉づかい、受け手の解釈の可能性をよく考えて発信する必要があります。

その一方で、文字だけでは表せない感情や雰囲気を、少しでも感じてもらうようにとの工夫が、文字の原点回帰とも考えられる絵文字なのではないでしょうか。

「どうして遅れたのですか」と「どうして遅れたのですか(笑顔の顔文字)」ではずいぶん違います。

「言葉」は確かに「私」というものを「混沌」から抜き出したでしょう。抜き出して、多くを捨ててしまうことが不幸と言うなら、それは不幸でしょうね。でも捨てたことによって抽出される幸福もまたあるはずです。(P132)

頭の中身という“混沌”を言語化で切り取ることにより、世に出て浮かばれる思考もある一方、切り離され取り残された哀れな思考もあります。

豊かな頭の中の思考も言葉として取り出してみると、非常に限られたものになってしまいます。

でも、言語化によりアウトプットしなければ伝えることができず、他人がその存在を知ることができず、時間が経つと消えてしまいます。

頭の中身の多くを捨ててアウトプットするしかない言語化。そうまでしてもアウトプットすることで、それが他人の頭に入り、解釈をほどこされ、また新たな言葉としてフィードバックされるとき、残された思考のためになる情報が得られるかもしれません。

また、たとえ少ない言葉でも、エッセンスのような研ぎ澄まされた言葉が、かえって相手の想像力を最大限に発揮させ、豊かな思考・想像を生起させることもあります。

詩や俳句、短歌などはそういったものだと思います。

(引用は文庫版によります)

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