”自分”づくりの物語

少年 川端康成 新潮文庫

川端文学の知られざる名編として、最近ネットでもよく話題に出ている。同性愛的な記述が騒がれているようだが、私はこの本に「“自分”を形成する過程」の物語を読ませていただいた。

人は生まれて後の境遇や周囲から、または生まれる前の、つまり遺伝から、自分に染着するものの幾分かを、自分から洗い落し、それから逃れて、あるところまで立ち還らないと、ほんとうではないようである。その染着するものを、分かりやすいように、大本教で仮に悪霊と呼ぶのなら、鎮魂鬼神も結構であろう。(P114)

私は私の現在の境遇や、幼い時から肉親を欠く孤独や、その他から、自分ひとりをたのむ自己中心と自己崇拝とに憑かれてはいないだろうか。(P119)

まず、生まれてからたいていの場合は家庭で親に育てられる。親がいて兄弟がいて、祖父母がいたりする。

徐々に幼稚園や保育園、小・中学校、高等学校や就職、進学と環境が変わっていく。そうやって人は周囲の環境に影響されながら、自分を形成していく。

その過程には様々な出来事があり、それらが自分の形成に影響を及ぼす。そんなこんなで結果として、ある程度の“自分”というものが形成される。

そうすると、10代半ばから後半にもなると“自分”というものはこういうものなんだな、という自覚もでてくる。“自我”も同時期に発生するのかもしれない。というよりも、“自我”というのは、“自分”の精神面を強調した言葉なのかもしれない。

自分=自我(精神面)+身体

ある程度自分でも「自分はこんなものなんだ」という自覚と承認ができてきて、そんな感じで過ごす。

あるとき、出会いがある。それは本書のような級友であったり、恋人であったり、尊敬する先輩や師であったり、優れた弟子、または別離や災害などの出来事かもしれない。

その出会い(出来事)によって、これまで形成されてきて、自分でも「こんなものかな」と思っていた“自分”が、見直される。

それはどういうわけだろうか。その出会った相手に合わせようとしてかもしれないし、相手に気に入られようとしてかもしれないし、相手を理解しようとしてかもしれないし、相手に挑戦しようとしてかもしれない。ときには洗い流される。

あるいは相手に圧倒的に打ちひしがれてかもしれないし、逆境のどん底に陥れられてかもしれない。

相手が与えてくれた影響、情報によって、自分を見直してみる、という時期があると思う。

その努力の成功や空振りがさらに“自分”に影響を与え、変えていく。

この時期は世の中的には“青春”と呼ぶのかもしれない。つまり、青春とは生まれてこのかた創ってきてみた“自分”が、新たな人間、局面、新天地に臨して試される時期なのだろう。

考えようによっては、「つねにそんな局面だ!」と考えていれば、人生いつでも青春である。

逆に、激動の成長時代や次々に生じる出会いと別れ、様々な出来事によって、“自分”というものが自分でもなんだかよく分からないという状況もあろう。

そういった状況に対しても、良い影響を与えてくれて、自分を見直させてくれるのもまた、他人との出会いなのかもしれない。

あるいは本での知識、そこからの知恵。あるいは宗教・哲学やそれを携える人との出会いも、自分をつねに刷新するために積極的に取り入れていきたい。

そうして私は彼と私との比較から来る自己嫌悪を生ずるよりも、むしろ彼の不思議さに我を忘れて、ぽうっと眺めていたのである。そうする私に極く自然な心の微小が浮んで来た。そうするうちに、彼が私にまつわりついてよりかかっていた。私の言うこと、為すこと、また密かに思うことまでが、なんの抵抗もなく彼のなかへ素直に流れ込んで行くのである。(P117)

こういった人間との出会いがあり、まずそこで自分との比較がなされる。相手の優れた点に着目し、自分に欠けている点に着目するようになる。

ときには自分と相手との共通点に喜び、ときには微妙な考え方の違いに腹を立てたりする。そういったことが、知らず知らずのうちに自分を化学変化させていく。

自分(私)は、川端少年くらいの頃は、つまらない(自分の思考・行動がつまらないだけであって、周囲の人からは並々ならぬ助力をいただいてきました)生き方をしていた。

だから、それほど大した人間にはならないだろうと思っていた。現に大した人間にはなっていない。

予備校に入ると、意外とちゃんと勉強する人なのかなと思ったりもした。大学に入ると、まずまず勉強はして、なんとか仕事には就いている。

高校生の自分よ、今の自分を見てどう思う。きっとスゴイとか思うのかもしれないが、いまだに、できた人間にはならないようですよ。日々けっこう困ってますから。

それよりも高校生の自分よ、それから色々な出会いがあって、結構君も変わるのかもしれないよ。現にこれまでを振り返っても、自分を変えてくれたなあという出逢いはいくつかある。

川端康成は、古い記録で川端少年に出逢い、どのように思ったのだろうか。

この引用に書かれているような、相手に対して“ぽうっとする”ことは一時期だけだったかもしれないけど、そんな出会いはたしかにあったと思う。

もともと人ぎらいの自分であったが、そういった出会いを通して人ってのもいいものかな、などと変わっていったのだろう。

今の家族のメンバーもそうだし、これまで出会ってきた人、同僚、上司、部下。皆がそうとは言えなくても、こう思える人間もいる。

そんな人と出逢い、通過してきた、あるいは現に付き合ってもらっている影響が、自分というものの形成や変化に、大きく関わっていると思う。

またときには、この小説のような”過去の自分との出逢い”も、自分の変化を感じたり、現在の自分になにか影響をもたらすかもしれない。

ときどきアルバムを見返したり、過去の知人と会うのも、そういった意味で良いのかもしれない。

宗教の本は読まない方がよいと思いますけど、読んだって差支えはありません。読めば読んだだけ行えばよいと思います。哲学と言ったって、浅いのは役に立ちません。哲学に因しんで死ぬなんて、本を読んで哲学は決して見出すことはできません。行わなければだめです。他から入ったものはまた出ます。しかし内からの悟りで入ったものは決して出ません。(P126)

この清野少年からの手紙の記載は、読書をする人にとって心に刻むべき内容である。

どこでもいつでも言われていることだが、たとえばビジネス書や自己啓発書などの本を読んでも、その内容を実践しないことには変化はない。

すばらしい人と出会っても、その人から何かしら学び、盗まないともったいない。

予想外の出来事があれば、予想外の勉強が得られるかもしれない。不運の出来事からさえも、我々は学ぶことができる。

願わくは「いつでも青春」と念々心に刻み、出会う人、本、出来事から何でも吸収して自分を変えて生きていきたいものだ。

*****

今年の4月16日は川端康成の没後50年という。どうりでこの作品も世間で騒がれているわけだ。

没後50年経っても、この本に描かれている人間成長、自分形成の物語は変わらないと思う。50年経っても2000年経っても人間は人間で、その行動と思考は対して変わっていない。

私なんかでも自覚しているだけでも自分の形成に色々な人、出来事が関わっているなあと思い返される。無自覚なところではどれだけの人に助けられているか。

だから、川端康成という偉大な人間を形成したその過去には、どのような人、出来事があったのだろうと、皆さんも興味があるのだろう。

その貴重な一端がうかがえるのが、この小説である。川端少年と清野少年の関係にワクワクするのもよいが、この小説はそんな川端康成に影響した出会いの、貴重なお話だと思う。

もちろん他の作品、たとえば『伊豆の踊子』や『雪国』などなども、川端康成という人間に限らず人間一般に普遍的な生き方や人間関係の影響を垣間見るのに、うってつけだと思う。

そういったところに視点を置くのも、小説のおもしろい読み方かもしれない。

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