世界を支え、数学の面白さを教えてくれる「e」

世界は「e」でできている 金重明 講談社ブルーバックス

数学関係の本について書き出すと、「私は数学が嫌いでした」で始まってしまいます。

以前ご紹介した『論理ガール』の記事でもそうでした。でも、それはちんぷんかんぷんな授業と試験で追いつめてくる敵としての数学でした。

ケアレスミスという歩兵、方程式という騎兵、そして指数関数、三角関数といった将軍たち。立ちはだかります。

まあ、昔の話にはある程度の誇張が入るもので。それに比べて今の数学を大いに楽しんでいる自分は、誇張のない姿です。

今は、多少の算数が(ときどき数学っぽいものも扱いますが)できれば生きていける日常と仕事の世界を過ごしています。

そうなると、ときおり目にするこういった本が、非常に魅力的に感じるのです。そのページを開いたときに表れる、ある種の言語のような数式や、奇っ怪にうねるグラフ。

教科書のように「覚えなさい」「理解しなさい」と迫ってこない、ある意味ショーウィンドウに並ぶ舶来品のような品々。

“覚えなければ”と切羽詰まって正面から対峙しなくてすむ、ながめるだけでもよい、となると、それらがあたかも鑑賞する対象のように感じられ、楽しむことができます。

そういえばこれは『ペルシア帝国』紹介のときも思ったことでした。

さて、この本は数学の中でもひときわ大切な役割を演じている自然対数の底「e」にを中心とした物語が展開されます。ネイピア数と呼ばれるものですね。

貸金業の思惑からほのめかされ、様々な確率の裏に潜み、ついには虚数の世界と実数の世界をつなぎ、様々な関数をつないでくれる大活躍かつ不思議な数です。

著者の金氏は、プロフィール欄を拝見すると数学関係の本だけでなく『小説 日清戦争―甲午の年の蜂起』といった歴史小説も多く書かれているようです。

本書の内容からもその造詣の深さ幅広さが感じられます。この本の主題である「e」にまつわる歴史、解説はもちろん、それを取り巻く人間そのものの歴史、社会、人類学など幅広い学問に関する考察がちりばめられています。

しばしば文学、古典からの引用も多く、理系とか文系とか右脳とか左脳とかの垣根をぶっ飛ばしてくれる感じがして、読んでいて実に愉快痛快でした。

自然科学や社会科学の理論の正しさは現実が担保してくれる。だから、少しぐらい矛盾があっても、それは理論がまだ完全でないための瑕疵であると考え、それを残したまま先へ進むことが許される。一部でも現実と合致していれば少なくとも理論の方向性は正しいとみなされる。(P112)

我々の生きている世界は、融通が利きます。自然科学や社会科学によってある程度この世界のことは分かってきていますが、いまだに分からないことはあります。

現実は必ずしも理論通りにいくわけではありません。人間、経済、社会、病気など“得体の知れないモノ”のあふれる世界であり、なんとかかんとか自分なりの“切り口”を創って、把握していくのみです。

そう、世界に住み世界に働きかける我々には、自分なりの“切り口”の作り方、好みというものがあります。

自然科学、社会科学である程度キマリはあるとしても、考え方の違い、行動の違いがあり、理論通りには進みません。そういった点が、人間が人間的な所以でしょう。

それに比べて、数学の世界は厳密に理論を重ねて、組み合わせて、矛盾がないか検証しながら一歩一歩進む世界です。

一方、理論で組み立てられたシッカリした構造の算数や数学が、我々の世界でもお金や点数、各種統計などで重要な役割を演じています。

多少あやふやなところがある人間世界の、確乎たる骨組みになっているのでしょうね。

このことからわかるとおり、一般の言語による言明の大半は命題ではない。

したがって一般の言語を用いる普通の科学に、ここまでの論理的な厳しさを求めることはできない。

しかし論理だけが頼りの数学は、その厳しさに堪えなければならない。それが、真の自由を得た代償なのだ。(P115)

数学はガチガチ理論体系なので、その中での言語、言葉づかいも理論に固められたものになります。

一方で、普段づかいの言葉を用いる普通の科学は、数学ほど論理的な厳しさは求められません。

場合によっては、言葉の捉え方によっていろいろ解釈できたりすることもあります。憲法なんかもそうかもしれませんが、ときどき困りますね。

ふと、言葉というものが“得体の知れないモノ”であると感じたことを思い出しました。

ある日の、「言語はカオスではないか」という話に触れました。そのときは「フーン」という感じで過ごしましたが、その後いろいろ考えました。

“カオス”というものは、一見規則があるように見えるけれども、複雑な動きを見せるもののようです。

たしかに、言葉に対しては動詞、名詞、形容詞、あるいはまとまりとして能動態や受動態と捉えたり、運動性言語とか感覚性言語と把握したりと、いろいろと整理して考えます。

こういったことは、言葉というつかみどころのない“得体の知れないモノ”に対して、いかに切り口を作って体系的に捉えるかという努力だと思います。

一般的に文字で表すことができて、意味を持つような音、声を“言葉”といっています。でも、もっと大きくみると、叫びや嗚咽、悲鳴や笑い声も、歌や口笛も言葉の一種かもしれません。

カオスである言葉の、裾野に拡がるものたちかもしれません。

さて、数学は理論の厳しさに堪え、そのうえで“自由”を得たとのことです。普通の科学とは異なり、厳密な言葉からなる数学の世界は、ある時はコッチ、ある時はこっちなどと不安定な要素がない、不意に変なことが起きて困らない、他から隔絶された自由で安心できる世界なのですね。

自律があるうえでの自由というと、短歌や俳句など字数制限があるゆえの世界の拡がりが感じられる言葉づかいも、偲ばれます。

y=ex,y=logx,y=cosx,y=sinxと、高校で学ぶ4つの超越関数がここに勢揃いした。

数学のテストで泣かされた身には悪の四天王のように見えた時期もあったが、昨日の敵は今日の友、試験も何もない! という生活を送るようになってからはすっかり仲直りし、今は楽しくつきあっている。(P141)

二次関数など、一般的な関数を代数関数と呼ぶそうです。代数関数は項の多寡はともかく最終的には最終項があり、終了します。

それに比べて項が無限級数といった具合に項が無限に続いてしまう関数を「超越関数」と呼ぶようです。

こういった超越関数と呼ばれる関数の代表が、引用にある四つの関数です。

これらがxを使った項の足し算や引き算からなる、一見代数関数のように見える式で表すことができるのです。

これは驚きでした。でも、代数関数と異なり項が無限に続いてしまうところが、あの微妙なグラフの曲がり具合や永続性を創り出しているのですね。

y=exは微分しても変わらない点が、これら悪の四天王のなかでも仲良くしやすかった記憶があります。

他の三者は、いまいちシックリこなくて、手を焼かされていましたね。でも今では数学の面白さを体現してくれるいいやつです。

ナットウ菌は何らかの方法で、ズルいナットウ菌を抑制するのに成功しているのだ。擬人化して表現すれば、ナットウ菌は進化の過程で、ズルいナットウ菌を抑制する公共心を育て上げたのである。(P216)

自分だけの利を考えるようなナットウ菌が出現すると、他のナットウ菌もマネして結局はナットウ菌の社会自体が維持できなくなるそうです。

これは我々の社会でも同様で、いわゆる公共心というものです。人間はお互いに自分の維持と同時に公共心、利他を考えることで、人間全体の社会を維持しているのでしょう。

eは不思議な数ですが、自然数、整数、有理数、無理数、複素数、そしてどんどんと広がる数学の世界において、いろいろな関数を仲立ちし、公共心、利他をはらむステキな数だと思いました。

本書終盤に出現するこのナットウ菌の話は、どういう流れで出てきたのか忘れましたが、こんな感じで人間社会や歴史、そこから中国古典や文学作品などの話が湧き出てくる本です。

学問とはこうあるべきだなあと、久々に心地よい読後感を感じさせてくれた一冊でした。

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