書けないときは、読んでみよう

ライティングの哲学 千葉雅也 山内朋樹 読書猿 瀬下翔太 星海社新書

ブログを書いていると、どうしても“書けない!”ということがあります。私もこのブログを、当面は週1で更新しようとしておりますが、1週間経過が近づいてくると、徐々にあせります。

ブログに限らず、文章を作ることは、けっこう脳みそを使います。そして必ず、書けないことにぶつかります。

この本の内容は、現代をときめく思想、物書きの精鋭4人が、そんな“書けない悩み”のために知恵を寄せ合って提供してくれたお話です。

ブログ、ツイッターなどのSNS、仕事の企画書、報告書、メール、あるいは読書感想文や論文、手紙や申込など。人間は活動していると、文章を作ることは避けて通れません。

書けないときに、フト読んでみると、なんとなく”みんなそうなんだ。それでも大丈夫なんだな”という気分になりますよ。

〆切直前に急に書けてくるときがありますよね。「うお、なんかすげー繋がってきた!」みたいな。これって実際は〆切が近づいてきたことによって、不要な部分や現時点では実現不可能な部分が落ちていって、今回はこれだけしかできないという限定的な形が明確に見えてくる、そのことで筆が走るってことだと思うんですよ。(P79)

最近チラッと思ったんですが、防衛のために深い溝を掘り、高い壁を築いたうえで言います。

「“すぐやる”ことに異はないか?」

世の中は全くもって“すぐやる”ことを推奨しています。そうしないと後悔するとか寿命が縮むとか、そうすれば人生が変わるなど様々な印象と程度の効果を付けて。

もちろん、仕事内容によっては“すぐやる”ことがほとんどの場合で最善であることは否定しません。

医療における患者さんへの対応や、多くの人に見てもらって完成に向かう仕事など、“すぐやる”べき仕事がほとんどです。

でも、かなりひねくれていますが、“すぐやる”ことにデメリットはないか、もしくは何でもかんでもすぐやらなくてもいいのではないか、とも思いました。

私は、もともとズボラで面倒くさがりな性格もあります。だから、逃げ道としてそんなことを考えるのであって、世の中やっぱり“すぐやる”ことが最善だとは思います。

少し無駄な時間をとらせますが、“すぐやらない”ことのメリットを言わせてください。

“すぐやらない”ことにより、後回しにすることで今を楽に過ごせる。〆切に間に合えばいい。多少迷惑をかけることはあるが、迷惑は仕事上避けられないものだ。

・・・はい、失礼しました。たくさんの反論は溝か壁にお願いします。

でも、ここで述べられているように、追いつめられ効果というか、書けないときは書けないけれど、〆切間近になると筆が進むということも、きっとあると思いますよ。

もちろんそれは、〆切のずっと前から書く内容について、顕在的・潜在的に考えていたうえでの話しでしょうけどね。

・・・「普段ものを考えて生きている」ってどういうことかというと、具体性と抽象性のあいだを常に行ったり来たりできているってことなんです。(P98)

具体化と抽象化は、おそらく脳みそをたくさん使うのだと思います。もちろん、具体⇔抽象のトレーニングをして、思考を鍛えることは大切です。

さらに、脳みそをたくさん使うと、意外なところから思わぬ考えがでてくることも多いのだと思います。脳みそは電気で働いていますので、思わぬ放電や感電、漏電が予定外のところを刺激するのでしょう。

だから、ある一つのことがらを考えるだけで、その解決も考え付くかもしれませんが、より抽象的なレベルで考えることができたり、別な具体例に応用することができたりするわけです。

・・・なんか、抽象的な文章になってしまいました。

・・・書き手として立つことは、「自分はいつかすばらしい何かを書く(書ける)はず」という妄執から覚め、「これはまったく満足のいくものではないが、私は今ここでこの文章を最後まで書くのだ」と引き受けるところから始まる。(P137)

事務作業、物書き、様々な仕事で文章作成がありますが、これは、“お仕事”です。一定の成果や維持ができれば大丈夫です。いつも通りの生活ができれば、大丈夫です。

いきなりベストセラーを書いてのけたり、“バズる”ブログ記事やツイートできたりするわけではありません。

凡庸な文章を日々の仕事と生活維持に資する程度、継続する。ときに脳みそから意外な考えが引きずり出されてきて、アレッと思う文章ができたりする。

いつかすばらしい何かを書けるはず、などと意気込まないでシトシトと、日々あるいは週1でも月1でも文章を継続して作っていればいいのです。

これが自分のいわば、“お仕事”なのだ。とでも引き受けて、呑み込んで。とりあえずは一つ一つ最後まで書き、完成させていきましょう。

外部化されない思考は堂々巡りを繰り返す。思考は外部化のプロセスではじめて線形化し、繰り上がる。(P155)

言葉は考えを実体化させ、伝えることもできるようになり、書いて残すこともできます。多少、考えを言葉にする段階で制限は受けますが。

でも、言葉として外部化しないで自分のなかに籠らせているだけでは、そのうち雲散霧消してしまうでしょう。

言葉にできない、言い表せない、あるいは言葉にすると大事な要素が損なわれる、ということもあるでしょうが、なにはともあれ言葉として残しておくことも大切です。

言葉は記号として聞いた人、あるいは見た人に伝わり、受け取った人の脳みそが記号を処理してその人なりの解釈で受け取ります。

モヤモヤしていた思考が、言葉にすることによって、扱いやすいものに繰り上がるのです。

もちろん、思考や感情を表現するのは言葉に限りません。絵画や彫刻、音楽も同様に脳みその中のそれらを、視覚ときには触覚、あるいは聴覚情報として外部化しているのです。

『自分の<ことば>をつくる』の紹介記事もご参照ください)

ツイッターに書いたところだけど、執筆はスポーツに近いんじゃないか。いや、そう言えるとするなら逆にスポーツもまた執筆に近いのであって、というよりもそもそもスポーツも執筆もそのコアには身体と習慣がある。(P175)

けっこう論文作成も同じで、まあ、同じ文章ですからそうなんでしょうけど。ごくまれに書いて、それが素晴らしい論文になる、ということはまずありません。

つまらない(失礼!)、小さな論文を書くことを続けていると、ときにアイデアが浮かんだり、面白い報告になったりして、いい論文もできるのだと思います。

スポーツと同様、習慣的継続的な実行と練習が必要です。スランプ、プラトーのような場面もあるでしょうが、不意に新たな道も見えてくるでしょう。

小説を書いているなかで、言語のあり方として気づいていなかったレイヤーがあることがわかってきたんです。内容中心に整理しようとしたら削ってしまう部分が大事なんですよ。それは単なる無駄ではなくて、そこにある種のリアリティや複雑な内容性が発揮されることがある。(P214)

無駄をそぎ落として伝えたいこと、内容だけを書いては、小説も面白くないでしょう。下手な日記のようになります。

情景描写や感情描写を精彩に書き込むというところも、小説家の腕の見せ所だと思います。

「言葉の芸術」である小説では、こういった細かい描写が作品の質を高めてくれます。

逆に論文や報告書、企画書などはそういったものは不要であり、伝えたい内容を分かりやすく書くことが求められます。

あるいは、余白のなせる技というのもあります。絵画でも余白が味わいを出すこともあります。彫刻でも思わぬくぼみや空間が味わいを出すこともあります。音楽も同様です。

言語には、言葉には、そういう役割もあるんですね。文章という言葉のカタマリを、ここにフッを入れることで、ある効果を生み出す。それがリアリティや複雑な内容性として、文章を色付けし、味付けしてくれる。

言葉って刺激を馴致するための手段なんですよね。外傷的体験がまずあって、言葉にしている。喋ることは防衛行為で、世界それ自体と無言で向き合うことが外傷的すぎてできないから、言葉で「解る」という防衛をするわけです。身体で解る世界と言語で解る世界の衝突や関係を、自分はいろんな仕事で問題にしていると思っています。(P252)

先ほども書きましたが、言葉にする段階で、ある程度の犠牲が払われています。もしかしたらその段階で、止むにやまれぬ感情も切り離すことができるのかもしれません。

だから、頭のなかでモヤモヤと保っていないで、言葉にしてみる。そうすると、出た言葉がまた目や耳から入って、自分の中の感情と折り合いを付けてくれる。そんなことがあるかもしれません。

よく、書き出すと落ち着く、解決する、客観視できる、ということが言われていますが、そういうことなのでしょう。

頭の中にある状態よりも、より簡単でとらえやすいモノに換えること、これが言葉にすることの一つの要素だと思います。

逆に、それを承知で我々も文章を読んだり、人の発する言葉を聞いたりする必要があります。

言葉の裏に隠された、あるいは言葉にする段階で削り落された思考や感情は、どういったものがあるのか?

読書や、知識を応用するときに大切である「人間心理の洞察(森信三)」あるいは「行間を読む」ということは、そういうことかもしれません。

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