ぼくの師匠はスーパーロボット 南田幹太 作 三木謙次 絵 佼成出版社
ネット上で紹介記事を見て、直後に注文してしまった一冊である。紹介内容から、自分の子供にも読ませたいと思った。
内容としては、やや近未来的でロボットを自家用にして家族の一員のようにしている世界。主人公の少年の家には、安売りされていた4SHO(ししょー)という外見が”おじいさん”のロボットが来たのであった。
少年は、そのロボットと関わるうちに、人生で大切なことを学んでいく。
自分の子供に読ませてみるつもりだったが、自分も読んでみると、家庭における「祖父母の役割」というものを考えさせてくれる、貴重な一冊となった。
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私が幼稚園児のころ、一緒に列車に乗りに祖父に連れていってもらった。
朝の登園前の時間にそんなことをする時間があったのか、と今になれば思うけれど、やはり小さい頃の流れる時間はゆっくりだったのだろう。
乗車駅で駅舎を出てから線路を渡り、島式ホームに向かう。そこまで細かくは覚えていないが、その駅の構造を思い出すとそうだろう。
鉄のピカピカ光る軌条(線路)の上を“歩く”というだけでも、子供にとってはドキドキだった。電車が来ないか、踏んではいけない神聖なものではないか。
線路と歩板のスキマがとてつもなく怖い気もした。そこに挟まったらどうしよう、と。
ブロブロと音をたてるディーゼル車で、2,3駅乗ってから降りたと思う。それから元の駅まで戻る。
相対式ホームだったような気がするその引き返し駅では、対向線路に停まっているいる車両の下部が見え、黒ずんだエンジンなどさまざまな機器が、赤茶けた路盤の砂利のうえで、ブロブロいっていた。それを見るのも好きだった。
今の自分の列車好きにつながっているのだと思う。また、祖父は寡黙な印象であったが、そういうところも今の自分になにかしら影響していると思う。
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祖父母と孫の間にはギャップがある。ギャップがあるからこそ、「孫はかわいい」といった、超越的な関係を築くことができるのだろう。
両親は、しっかり育てなければという気概と責任感に充ちており、どうしても気を遣ってしまう。怒ることは多いだろう。
そのてん祖父母はより高い、メタな見地から子供を見ている。逆に、ときに怒ると怖いのも祖父母である。
祖父母は普段やさしくて怒らない分、怒るととんでもないことではないかと、子どもながらに感じるかもしれない。
孫からみると、ちょっと何を考えているか分からないのも、祖父母かもしれない。祖父母が昔から引き継いできた孫たちの時代にそぐわない古い考え方は、孫には通用しないかもしれない。
「しかし教科書を読むだけでは、本当に知識が身についたとは言えん。こうしてじっさいに見ることが大切なんじゃ」(P51)
子供のころ、祖父母に何か言われても、すぐにはピンと来ないかもしれない。あとで、「あの時祖父母が言っていたわけの分からないことは、こういうことだったのか」と感じることもある。
たとえば両親が共働きなどで、幼少期に祖父母と過ごした時間が長い人は、その一部が自分の原体験となっている人も多いだろう。
あとあとから、自分の今の状況・境遇に応じて「そういうことだったのか」と気づく。そう、これはまさに、「古典」である。
両親が現代文であるとすれば、祖父母は身近な古典である。それより古いことを言う人は、まずは生存していないので、それこそ本の古典を読むとよい。
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人はそれぞれ大きな時間の流れを、自分の時間軸で、それぞれのタイミングで生き進んでいる。だから人間の間にはギャップがある。
親と子のギャップ、世代間のギャップ、上司と部下のギャップ。
そういった中で孫と祖父母というものは、日常を過ごす家庭で得られる最もギャップの大きい関係だろう。
”ギャップ”というと、排除すべきもののように感じるが、それが生きていく知恵を生み出す。「なんで怒られたんだろう?」「どうすれば良かったのだろう?」と、分かり合えなさから得られる学びがある。
上司と部下も以心伝心ではないから、齟齬が生じる。次々に出現する齟齬、誤解、違和感を、問題に変化しないうちに次々に解決していく。それも仕事のうちである。
そして、こうしたギャップの産みだすズレが、さらなる改善や工夫を職場や職業にもたらし、さらには人類と文明の進歩につながる。
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核家族化で孫と祖父母が一緒に住むことが少なくなった。身近な家庭内で得られる大きなギャップのある人が、減ったわけである。
今後、本書のようにAIがロボットとして我々と生活の場をともにするかもしれない。様々な役割がつきそうだが、祖父母役のようなこともあるかもしれない。
そして、本当の祖父母に替わって誉め言葉や小言、あるいは“おばあちゃんの知恵袋”を披露するかもしれない。
ツイッターなどでも偉人のいわゆる“bot”が名言を吐き出しているらしい。
人間同士の付き合いは性格や食事の好みなどなど面倒で、さらに核家族化で失われたギャップのある関係をAIが肩代わりするかもしれない。
AIが祖父母の役割を演じ、気の利くギャップを作り、人間の学びにつなげることを担当してくれるのかもしれない。
でも、そんなAIが祖父母を代替する未来はまったく絶望的と考える。
知識をくれたり、頑固だったり、口うるさかったり、ときには優しかったり、いろいろ教えてくれたり、これくらいならAIでも可能だろう。
でも、実体験に基づいた経験談や人生の機微を語ってくれること、介護やお見舞いをする機会など、生身の人間関係だからこそ得られることが、はるかに多いことは言うまでもない。
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そんなことを考えさせてくれた一冊だった。