真の”エデュケーショナル”とは

2021年11月30日

最近、手術の前の計画(手術の手順を計画したり、予測される手術の様子を考えたりすること)で、画像解析ソフトなどを用いるものの、結構な手作業を強いられ苦労することがある。

医療においても最近は、画像解析ソフトや3D作成技術が発達している。血管や腫瘍の立体的な構造や位置関係を、一目に見ることができるようになってきている。ある程度の操作をするとパッときれいな絵ができるものもある。

学生や初学者が見ても分かりやすく、理解しやすいことを、教育的ということで“エデュケーショナル”ということがある。英語にしただけかもしれないが。

さて、“エデュケーショナル”なことは本当に教育的なのだろうか。たしかに、学生などまだ専門的な理解の浅い人や経験の少ない人に対しては、パッと見て分かりやすいほうがいいだろう。知らなかった、あるいは実感しなかった構造や位置関係が分かる。

しかし、見ればすぐに分かるということは、考えなくても、苦労しなくても分かるということである。想像力を働かせなくても分かるということである。

我々は手術の前に医療用画像をみて、実際の手術ではこうではないかとあれこれ予想する。実際の手術で見えたことが、後から見て術前の画像ではこれであったと、見直す。

そこで、「この画像所見はああいうふうに見えるものだったのか」などと確認することができる。フィードバックである。

しかし、フィードバックとはいっても、視覚のフィードバックだけではもったいない。自分の身体で覚えるということも必要である。そのためには、自分の身体で、そういった画像を創り出す苦労も必要だと思う。

「自分ではこのように思い描いたが(実際に線を引いたり、腫瘍を囲ったりしたが)、実際はこのように曲がっていた、想像以上に大きく感じた」などと。

言い方は悪いが、誰でも分かる絵を見せられた人は、そのままである。誰でも分かる絵を作った人は、その点においては他より少し抜け出すことができる。

(もっと言い方を悪くすると、バカでも分かる絵を見たバカはバカのままである。バカでも分かる絵を創ったバカは、少しバカを抜け出せる)

“エデュケーショナル”なものに触れて勉強することも大事だが、“エデュケーショナル”なものを創り出す苦労こそが、自分の教育・成長につながると思う。苦労するほど、頭に入るものである。

・・・と思いながら、苦労を紛らわしている。

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