職業・役割を「道」に高めることが大切

2021年11月23日

弓を引く人 パウロ・コエーリョ 山川紘矢 山川亜希子 訳 KADOKAWA

パウロ・コエーリョは、どうやって弓道のことをこれほど知ったのだろう。読んでみてまずはそう思った。“著者について”をみると、“彼は死をもてあそび、狂気から逃げ出し、薬物にふけり、・・・”と穏やかではない話が載っており、そういう彼の人生が、著作のインスピレーションになっているという。弓道とも、そういった中で出逢ったのかもしれない。

彼の有名な著作としては『アルケミスト』があり、読んだことがある人も多いだろう。こちらも、単純な冒険譚と読むこともできれば、随所に人生の切り開き方のようなものが込められていると読むこともできる作品である。

さて、この『弓を引く人』という作品であるが、弓道の経験がある私からしても、本当に弓道の本質をついていると感じた。とはいえ、私も学生時代に弓道をかじった程度なので、せいぜい矢を的に当てられるかどうかというレベルであるが。

しかし、学生時代の弓道の練習やサークル活動を通して、あるいはその後いろいろな哲学、宗教、自己啓発などの本を読むうえで、人間の生き方に共通するような考え方、たとえば礼儀、修業、道具を大切にすることなどは、弓道に込められていると感じてきた。

もちろん、弓道のみならず、日本の○○道というものは、その技術としての体得に加えて、精神面での精進を要求する。これは柔道や剣道といったいわゆる武道のみならず、茶道や華道、香道なども同様である。まさに鈴木大拙が『禅と日本文化』で語った、世界に誇る日本文化の特徴だと思う。

「道」という考え方は現代のさまざまな職業や役割においても、音楽の道、医師の道、営業の道、社長の道、講師の道、部下の道、親の道、などと(ほとんど造語かもしれません)して考えるべきである。たんに職業の業務をこなすだけではなく、そこに森信三の言うような「人間心理の洞察」を配した、人間相手の仕事に高める考えだと思う。

弓道の精神はすべての道に通じるからだ。(P23)

弓道に限らず、武道に限らず、上に述べたような様々な職業や枠割すべてで、単なる技術ではなく精神を、心を込めるという考えが、大切だと思う。

マスターとは何かの知識を教える人のことではない。マスターとは、魂の奥底に最初から持っている自分自身の知恵を見つけるために、最善を尽くしなさいと、生徒を鼓舞し、彼らに霊感を与える人のことだ。(P25)

まずは、自分の職業なりで一生懸命がんばり、どうすれば技術が向上するだろう、人の役に立つだろうと工夫し、熟練していく。そのうち、その道の技術以上のことを考えるようになる。

技術はある程度到達点を設定することができるかもしれないが、精神面での向上は果てがない。体力や技術は加齢とともに衰えることもあるが、精神面では、ますます磨かれるだけだろう。

自分をそこまで磨くように日々努力する。これは自分の仕事の研鑽、修業でもいいし、読書などで精神を養うのでもいい。そして、そういうことが大切だよと、弟子に伝える。これができるのが、マスターといえるのではないかと思う。

弓は射手の手の内で、あるときは休息し、またあるときは緊張する。しかし、手は射手の身体の全ての筋肉、全ての意図、全ての努力が集中した場所にすぎない。(P47)

弓は道具である。道具使用のポイントは、自分の神経をその道具の先端までつなぐことである。弓は全身で使用する。全身といっても、身体のみならず精神・心でも使用する。

弓を扱うとき、弓を持つ手の神経だけではなく、手の根元やそれを支える体幹の筋肉、それらを司る脳脊髄、それらを統合する精神・心、あるいはこれまでの経験、知識、記憶なども、弓という一つの道具に集中させる。

射手にはやがて、弓道のあらゆるルールを忘れ、完全に本能に従って行動し続けるようになるときがやってくる。しかし、ルールを忘れるようになるには、まずルールを尊重し、ルールを知らなければならない。(P133)

意識的には忘れていても、無意識的には覚えているだろうから、意識しなくてもしっかりとした弓道の本質は染み出てくる。

さらに、弓道以外の行動にも、その本質は染み出てくるだろう。本能の従った行動をするとしても、弓道の本質を逸しないだろう。こういったことが、たとえ弓道以外でも様々な職業の技術に役立つのではないか。

もちろん、これは弓道に限らず、ある道を技術のみならず精神面でも追及した人間であれば、だれにでも当てはまることだろう。

そのためには、どんな道でもまずはその道の歩き方から始め、ルールを体得しなければならない。世阿弥の言う「守破離」ということだろう。

哲也は弓の道が人間のどの活動の中にも存在するとも言わなかった。(P145)

なぜ哲也は弓の道を志す少年にこのような大事なことを“言わなかった”のか。それは、自分で感じてほしかったからだと思う。人に言われて知ることよりも、あるとき自分で気付いて知ることのほうが、何倍も残るし、自分の一部となりやすい。

そして見方を変えると、そうやって弟子に自ずと分からせるようにするのが、師匠(マスター)の役割の一つだと思う。

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