視覚情報は脳に入る情報全体の83%を占めると言われる。しかし、頼りない。
視覚は分かりやすい。まさに一目瞭然である。しかし、見誤るということがある。錯覚もある。意識して観ようとしないと見えないこともある。
その点、触覚は身体を賭けて受容しているためか、過たない気がする。
*
医学部では骨学実習という、骨のセットを手にしてスケッチする実習がある。そのとき、私は個人的に「触ることが絵を描くためにも重要」と実感していた。
おそらく、触らなくても、ジーッと見るだけでもスケッチはできる。形をしっかりトレースして、でこぼこや特徴的な形に気を付ければよい。
でも、実際に手で触ってでこぼこ感やザラザラ感、ツルツル感、しっかりした感じやもろそうな感じを感じたほうが、なんとなく良い絵になる気がする。
世の中たいていのスケッチは見るだけで書き始める。風景画もそうだろうし、人物画も、あまりモデルをベタベタ触って描く人もいないだろう。
でも、モデルの人はともかく、リンゴや彫像、その他静物については、触ったほうが質感を絵に表現することが、たとえ意識しないとしても可能になるのではないかと思う。
*
医療の場では画像診断が発達して、触診や聴診などは以前より減っているかもしれない。我々も救急の場に呼ばれて患者さんを診るとき、うっかり最初に患者ではなく画像を見ようとすることもある。
画像は分かりやすいが、画像にあることしか教えてくれない。問診はもちろん、触診や聴診は、いろいろな情報を伝えてくれる。もちろん、その情報の受け取り方は、熟練度やアンテナの張り具合によるのかもしれないが。
手術でも、対象を道具で触ることによって硬さなどの触感を得ることが大事だと思う。そして手術終了後の手術記録では、そういった触感や血管の脈動感を表現できればと思う。
今はお絵かきソフトも普及してきており、それもそれで訓練が必要だが、きれいな絵を描くことができるようになっている。
しかし、私は手術記録については手書き派だ。というのも、術中に感じたそういう触感を、実際にその場で感じていた「手」が絵に落としてくれると思っているからである。
(気合を入れて描けば)それを絵に表現することができると思う。
「眼」からの情報だけでは入ってこなかった情報が、なんとなく「手」から脳に入っていて、それが術後に再び「手」を介して紙面に表れるのではないかと考えている。
この経路は、「手」→脳→「手」に閉じており、意識にも上って来ないものかもしれない。
*
脳のインプットは、たしかに視覚からが83%で他は聴覚、触覚、嗅覚などだろう。
一方、インプットされた情報の表出、つまりアウトプットについては、眼は無理、耳も無理、鼻も無理である(もちろん、目くばせやウインク、目を瞑る、涙を流す、鼻で笑う、鼻息?などはあると思う)。
アウトプット役の代表は口であり、手である。まずは「言葉」を使って表出できる。口は言葉を発語としてペラペラ表出する。手も言葉を文字としてサラサラ表出する。
言葉以外にも、叫びや感嘆などさまざまな発声によって口はアウトプットすることができる。まさに口は脳のアウトプット担当の要である。
さらに食事を摂ったり呼吸したりと、ごくろうさん。
そして、手。手もアウトプットは多彩である。言葉を文字として表出する他にも、拍手や手を振るなど、様々ある。GoodとかOKとか、絵文字でも手を用いたものが多彩にある。
考えてみると、手というのはインプットとアウトプットを兼ね備えた、身体の中でも類い稀なる存在だと感心する。
だから、中には「手」→脳→「手」といった無意識の経路もあるのではないか。(“口がすべる”のは「口」のアウトプットの無意識版かもしれない)
(「手」については、『脳の実働部隊としての「手」』の記事もご参照ください)
*
眼を使って見ることでは、形や色、存在と動きしか感じられない。
手を使って触ることでは、触感、硬さ、温度、湿度などなど、その対象に関する多彩な情報が得られる。これらは眼を使って感じることもできるが、しばしば騙される。
視覚はたしかに、情報の大部分を占め、使いやすい感覚ではあるが、大事なときには他の感覚も使うようにしたい。
視覚情報として脳に入った、蓄えられたと思われる情報の一部は、触覚など他の感覚で補われた情報ではないだろうか。
ふと、視覚情報は“視覚情報”の83%を占めるに過ぎないのではないかと思った。