「不惑」からの生き方

2021年6月26日

40代から深く生きる人、浅く生きる人 松尾一也 海竜社

私も40代になりました(わりと前になっていますがね)。

40代は人生の収穫期、黄金期とも言われているようです。ある程度仕事に習熟し、上司の役に立つことができるようになると同時に、部下や後輩にも恵まれてくるころかもしれません。

さらには、子どもが成長し、バラエティ豊かな家族を形成し始めている時期かもしれません。

『論語』にも、「四十にして惑わず」という言葉があります。一般的には40歳にもなったら、ある程度人生の道行も固まってきて、順調に進んでいくといった印象でしょうか(この言葉の新たな解釈は、後で紹介します)。

その一方で、ミッドライフ・クライシス(中年の危機)という言葉もあり、40代が人生の生きがいや働きがいを見失い、迷い始める時期となることもあります。

仕事上の問題、家庭の問題、さまざまな問題が出現したり、浮き彫りになってきたりする時期かもしれません。

さあ、そんな40代を、どのように過ごしていけばよいのでしょうか。

著者は大学時代に学んだ東洋思想の深い裏付けのもと、「人間学の探求」をライフワークとして、さまざまな人間学に関する先達の講演をプロデュースしたり、著作活動をなさったりしています。

自身の経験や先達からの薫陶に裏打ちされた人間学を感じる本です。一方では、“40代からの経年劣化を防ぐためには”、など身近で興味深い話題が満載です。

40代になって、ちょっと思うところのあるみなさん。これからの生き方の参考に、ぜひ読んでみてはいかがでしょうか。

本当の教養とは人の心がわかることなのです。(P49)

「教養」という言葉も、なかなか難しいものです。様々な意味づけ、解釈がなされています。

大学には「教養課程」という勉強期間があります。大学の教養課程では、いろいろなことを勉強します。

「いろいろなこと」を勉強することで、なんとなく人の考え方や心がわかってくるのかもしれません。

そして、人の心がわかることが、知識や技術を知恵やアートに変えてくれます。森信三先生のおっしゃる「人間心理の洞察」ってやつです。

専門の知識だけでは、一か所にとどまった狭い考えしかできません。専門外の学問やこれまでの人々の考え、思想を学ぶことによって、自分の専門分野でも、幅広く人々の役に立つ仕事ができるということなのでしょう。

私なりに32年間、学び続けた人間学という学問の頂上で出逢うものの正体は「感謝と祈り」に尽きると思います。(P54)

宗教、哲学、人間学といった、人間が人間らしく生きていくための学問が、結論としているのはこの「感謝」と「祈り」ということです。

見方を変えると、「感謝」は謙虚さの現れでしょう。「祈り」はすべてを任せる気持ちだと思います。

謙虚さは周囲からいろいろな物を集めるために必要です。吸引力、磁力、あるいはアンテナを広く張ることにつながります。

教えるほうとしても、謙虚さの見える人に対しては、教えやすいと思います。また、教える側も、相手がよく理解しているか、ひょっとして教え方に工夫が必要ではないかという謙虚さが必要です。

また、人間は自分が考えたようにはうまくいかないものです。逆に自分が考えたよりもうまくいくこともあります。

どうなるか分からないと、さじを投げるのではありません。「人事を尽くして天命を待つ」ということで、できることはやって、あとは「祈る」という気持ちも大切かと思います。

人や仕事は「楽しそうな人」に集まる(P108)

仕事はつらいもの、遊びは楽しいものというイメージがありますが、私はできるだけ仕事も楽しく、と考えています。

仕事のうちには、手術なんていう非常に緊張感を強いる場面もあります。でも、手術も“楽しく”と考えています。私は。

もちろん、手術は“気楽に行こう”とか、ましてや“エンターテイメント性を求めよう“、などという不遜な考えではありません。

真剣に、集中して手術は行いますが、していて気持ちのいい手術、周囲も気持ちよく協力して進めることができる手術を、希求しています。

そのためには、術前の検討を十分に行い、手術対象の解剖学的構造や、実際の手術の流れを予測しておきます。

手術記録(手術の流れや内容の記録)を、手術の前に予想して書いてしまったりもしています。

そして、術中の手術室の雰囲気も大切だと思います。ときには状態が安定しなかったり、思わぬ出血が起きたりして緊迫した雰囲気になることもあります。そんなときは、最善をつくしてそれぞれの役割を果すべきです。

そういう場合でなくても、手術中はちょっとしたことでイラッときたり、つい怒鳴りそうになったりすることもあるでしょう。なかなか予測したように手術が進まないこともあります。看護師さんの働きが期待通りでないこともあります。

そんなときでも、つい怒鳴ったりすると、周囲の雰囲気があっという間に悪くなってしまいます。それは、避けたいと思っています。

もちろん、ビシッと言うべきときは、言うべきです。

楽しそうに仕事をすることにより、新たな仕事を与えられ、チャンスが得られるのではないかと思います。

さらに、例えば仕事や手術を見学している実習学生も、好感をもって自分の仕事に興味をもってくれるのかもしれません。

どう思われてもいいや! という勇気、とても重要です。「自分の人生は自分で創る」という気概を持てば、人の目は気にならなくなってきます。(P129)

私は、昔から人の目を非常に気にするほうです。何かしようとすると、何か言おうとすると、周囲の目が気になる。

それはそれで、慎重であり下手なことはしない、いわないということで良い性質なのかもしれませんが、それにより失ってきた機会もあったかとは感じます。

「どうでもいいや!」ではありませんが、あまり人にどう思われるかを気にしないで、自分の気持ちを出していくことも大切だと思います。

意外と、周囲は自分のことをそれほど、考えていないものらしいです。

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ちなみに、論語で孔子がおっしゃっている“40にして惑わず“からきた「不惑」ですが、もともとの意味は”惑わないように“というわけでもないようです。

以前ご紹介した『すごい論語』で述べられていました。「惑」という字はもともと下の「心」が無かったようで、そうすると、「國」の中身、「域」の旁です。

つまり、この字は、「区切る」とか「囲う」という意味合いがあるようです。つまり・・・40代は「自分を区切らず、限定せず、まだまだ可能性を求めて生きよう!」といったところでしょうかね。

まあ、一攫千金を求めたり、フラフラしたり、周りに迷惑をかけるのは良くないでしょうが、「自分はもうこの生き方で決まったんだ、ここで我慢するしかないんだ」、などと考えないことです。

なにかもっと工夫できることはないか、うまくいく方法はないか、と求め続ける。そして、周囲との関係においても、上からも下からもそういった人間学を学ぶことにおいて、もっとも有利なのが、40代なのかもしれません。

上司や先輩とのつきあい、部下や後輩とのつきあい、家族とのつきあい、そして自分自身を顧みること、読書で宗教、哲学、人間学を勉強すること、そういったことから学びながら、一つ所に固執せず自分の道を徐々に探していく。それが40代の生き方なのでしょう。

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