木から森を感じ、言葉から背後の世界を感じる「暗黙知」

2020年9月12日

暗黙知の次元 マイケル・ポランニー 高橋勇夫訳 ちくま学芸文庫

「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」

この有名な言葉は、いろいろな場面で実感することがあります。どうしても言葉では表せないこと、教えたいこと、知りたいことがあると思います。

たとえば、職場の業務マニュアルを作ろうとしていると、苦労することが多いと思います。

もちろん、必要なことをもれなく書き込むことも重要です。しかし、マニュアルに文章として、言葉として記載することが難しい内容があるのではないでしょうか。

たとえば、指導医への報告のタイミングであるとか、「ちょっと変だな」という違和感にいかにして気づくか、などなど。

あるいは、後輩への指導などで、自分の身に付けていること、伝えたいことをどうやって伝えたらいいんだろう、と困ったこともあります。

それは私が口下手であったり、言語化能力不足であったりすることも一因ではあるかもしれません。

ともかく、我々は記録やコミュニケーションの手段としては、「言葉」を使うしかありません。

電話やテレビ、ネットなど、電波や光通信でコミュニケーションしているといっても、端末では「言葉」として表されないと、受け取ったほうも理解できません。

しかし、世の中には「言葉」にできないことが、あります。

もちろん、「えーんえーん」と泣いたりする声や感嘆、怒りや笑顔といった表情や顔色、身体全体の仕草、緊張なども重要なコミュニケーション手段ではあります。

そういったことも含めてかもしれませんが、世の中には「言葉」にできないことが、実にあると思います。

今回ご紹介するのは、そういった日常的なことから、哲学や生き方の問題について、言葉では表現できない「暗黙知」についての本です。

「暗黙知」とはどのような知なのか、一般的な(現行の)知とは何が異なるのか。そして、「暗黙知」とどのように付き合っていけばいいのか、その一端が分かると思います。

私は人間の知を再考するにあたって、次なる事実から始めることにする。すなわち、私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。

(P18)

言葉で教えられたこと、文字で読んだことだけを学んでいるわけではありません。

また、言葉で教えたこと、文字で伝えたことだけが相手に伝わっているわけではありません。

話している人の表情、体格、声などといった要素も相手は受け取っています。その会話の場の雰囲気やシチュエーション、各人の健康状態なども影響するでしょう。

逆に、ある知識を言葉として勉強したとしても、そこには様々なものが附随してきています。

その知識を教えてくれた人のことであったり、教わった場所や時間、どんな場面だったか、自分の体調であったりと。

人が「学ぶ」「知る」ということは、コンピュータにデータをインプットするということとは、次元が違うと思うのです。

たんにデータの入手だけではなく、様々な経験が附随します。学校に行く間もいろいろな出来事があったり、考えたりしています。

天気も気にします。昼食も気にします。友人と何を話そうかということも気にします。

通信制の教育や、今では通信制だけで学位を取得できる大学もあるようです。しかし、学校や大学といった学びの場は、知識をインプットするだけの場ではないと思います。

そこに自分が身を置いて、知識のインプットはもちろん、友人と会ったり話をしたり、口論したり、教師に怒られたり、帰りにコンビニに寄ったりした経験も得られます。

暗黙知認識において、ある事物に近位項(A)の役割を与えるとき、私たちはそれを自らの身体に取り込む、もしくは自らの身体を延長してそれを包み込んでしまう。その結果として、私たちはその事物に内在する(Dwell in)ようになる、と。

(P38)

ある知識や技術を自分のなかにインプットする、取り込むということは、コンピュータとは違う、自分の身体そのものを変えることだと思います。

知識や技術を取り込むことによる、「意識の延長」というものもあると思います。

つまり、自分の知識が増えれば、それまで気づかなかったことに意識が及びます。なぜあのとき先輩はああ言ったのか、指導医はああいった判断をしたのか、などと。

「上級者の心は下級者には分からない」ということは、こういったことかもしれません。

また、技術をして道具の使い方を覚えると、道具は我々の身体に取り込まれていると思います。

手にした道具の先にまで、意識が行きわたっているのです。大工さんのカンナの刃先に感じる感触や、外科医のメスの先端に感じる感触が、優れた仕事につながります。

そういった、知識や技術を身体に取り込むことで得られた身体の変化が、「暗黙知」という知を生み出すのだと思います。

もうご理解いただけるだろうが、あけすけな明瞭性は、複雑な事物の認識を台無しにしかねないのだ。

(P41)

もちろん、個々の諸要素を暗黙的に再統合することが、注意を集中させることで破壊された意味を回復させるための、唯一の方法ではない。多くの場合、各要素間の関係を明示的に述べると、破壊的分析が包括的存在に与えるダメージは緩和されるのだ。

(P43)

「木を見て森を見ず」という言葉もあります。言葉の意味をとらえようとしたり、一つの意味にとらわれたりしてしまうことにより、その言葉が背後に蓄えている豊かな世界、様々な応用範囲を狭めてしまうかもしれません。

古典の扱い方も同様だと思います。古典は、その時代その時代、その人その人にとって、ピッタリとくるものがあるから、古典として長年残ってきたのです。

たとえば『論語』にしても、孔子の考え方は当時の社会でも素晴らしいものであり、弟子たちも多くその教育を受けていたと思います。社会に役立てようとしていたと思います。

そんな『論語』は現代においても、人と人とが人間として生きていくうえで、社会で生きていくうえで大切なメッセージを伝えてくれます。

むやみに一般的な意味付け、現代語訳を教わってしまうと、「そういうことが書いてある言葉」としか思わずに済ましてしまいます。

中学校や高等学校で「学びてときにこれを習う。また悦ばしからずや」を、勉強精励のことだと思うかもしれませんが、その時は勉強に静を出す時期だからそれでいいのです。

社会人になれば、職業上の知識や技術を得るさいにも応用できます。趣味についても同様です。

あるいは少し年をとって人生とはなにか、良く生きるとはなにかなどと考えだした折にも、『論語』の言葉は生きてくるでしょう。

とりあえず身体にしみこませて、あとは自分の経験や解釈、ときには他人の考え方なども加味する場面もあるかもしれません。

意味は、場面場面で生きてくるのであって、さておいて、とりあえず身体のしみこませると言う点では、昔の寺子屋などで行われていた「素読」がピッタリなのだと、本当に思います。

身体にしみこませておいて、折々に自分に合った、いま現在に合った意味を引き出すのが、古典の良い使いかたではないでしょうか。

理論には「不意の確証(surprising confirmations)」が存在する、とよく言われる。

(P112)

いわゆる「直観」と呼ばれる、「なんだか理論や根拠があるわけではないが、こう思う」ということがあります。

もちろん、「直観」を生み出す土台として、多くの知識を得るための勉強や修練が必要なことはいうまでもありません。

しかし、フツと現れる「直観」は、我々の生活に意外な展開を生み出してくれたり、思わぬ進歩を持ち込んでくれたりします。

ときには「直観」に頼って失敗するかもしますが、人間という生物の生き方に、彩りを加えてくれていると思います。

要するに、人間は理論や根拠だけで生きてきたわけではなく、さらにこれからも理論や根拠だけに基づいて生きていかなくてもいいのです。

ポランニーの考えでは、暗黙知がその処方箋であった。彼は暗黙知の階層性と社会性が極端な完全主義を退けると考えた。暗黙知がある限り、人間はつねにより上位の「隠れた実在」を志向して、自らの知を更新し続けねばならない。つまり現行の知はいつまでたっても不完全なままなのである。

(P187)

現行の知は、言葉に加工して伝えるしかありません。逆にいえば、そういった言葉を介して伝聞や文章を介して伝えることが可能で、そうやって教えられ学ばれるのが、現行の知です。

文字として教科書やマニュアルなどの文章として、誰が見ても分かるように残しておきます。それを、読んで自分の理解力に左右されますが、理解するわけです。

なんとなく、現行の知は数直線上に点として示すことができる“整数、有理数”のようなものかもしれません。

到達点として提示することも可能です。ここまで目指しましょうであるとか、今年はここからここまで勉強します、などと。

それに対して暗黙知は、√2やπ、eなどの無理数、はたまたアッと驚くようなところに存在している虚数、複素数のようなものかもしれません。

整数の点を一つ一つ踏み歩んでいくうちに、知らず知らずに通過して、明確な点としては表せないけれど(言葉として表せないけれど)、身体に沁み込んでいる知です。

暗黙知を得るためには、現行の知を収集することも重要です。しかし、現行の知を集めながらも、常に暗黙知というものがあって、それを手にしたいものだという気持ち、それを目指すのだという考えを持ち続けることが重要なのではないでしょうか。

暗黙知というのは、現行の知が、いわば漸近線のように目指す、しかしたどり着くことはできない最終目標点なのかもしれません。

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職業にしても、必要な知識や技術を修得すれば、現行の知としては足りますので、仕事は進めることができるでしょう。

しかし、そこからはなかなか新しい発想や、物事の違ったとらえ方というものは、出てこない気がします。

そこで、できるだけ「暗黙知」を積み上げられるような勉強をしていきたいものです。どのようにすればよいのでしょうか。

それこそ、「暗黙知」なのかもしれませんが。

ただ、素読と同様、まずは基本となる型を身体にしみこませ、それを繰り返しているうちに、様々な経験や新たな知識、技術と混ざることによって「暗黙知」が築き上げられると思います。

また、昔の師弟関係のように、常住坐臥をともにするような指導、あるいは「背中を見る」ような指導が、現行の知のみではなく「暗黙知」も育ててくれる教育なのではないかと思います。

常住坐臥をともにするのは現実的ではないかもしれませんが、ときどき飲みに行っていろいろな話をするだとか、そういうこともいいのではないでしょうか。

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