「言葉」から入る先人の知恵

2020年7月19日

言葉の力 シン・ドヒョン、ユン・ナル、米津篤八訳 かんき出版

この本と書店で出逢って帯を見て、「BTS(防弾少年団)Vの愛読書」・・・? なに? といった乏しい知識の私でした。

調べてみますと、なになに、「防弾少年団」は韓国を代表するグループであり、世界的アーティストとして名を馳せている、と(オフィシャルページより)。

で、「V」というのはそのグループのメンバーの名前であるわけですね。勉強になりました。

国内のアイドルグループについても疎い私なので、韓国のことなんて全く知りませんでした。

・・・ということで、今回ご紹介する本は、韓国の人文学者である著者による古今東西の哲学者、宗教者、偉人などの「言葉」を集め、解説した本です。

どうしてもこういった本の紹介は、「引用の引用」みたいになってしまいます。

でも、この本は先人たちの言葉を集約してくれていて、さらに著者による解釈、例示が優れており、効率よく勉強することができます。

この本は、「先人の言葉」という優れた素材を、いい感じに料理して出してくれる、”小料理屋”といった感じでしょうか。ときどき足を運んで見たくなる一冊です。

この本をきっかけにして、それぞれの先人についての詳しい本をあたり、気に入った先人の知恵に深く入っていくというのも、良いのではないでしょうか。

マルティン・ブーバーは、観点なくして世界を見ることはできないと言う。これは主観を取り除いて、世界をありのままに見るなどということは、そもそも不可能だという意味だ。

(P47)

“客観的”にものごとを観ることは大切です。自分の感情や考え方が混じった“偏った”主観的な見方にならないためにも。

しかし、ここで述べられているように、まったく主観を排して世界を見るということは、人間にはできないでしょう。

人間というものは、これまでの自分の人生でこしらえてきた“脳”によって、自分が生きている世界を作っているのですから。

そして、逆に自分なりの“観点”をもってものごとを観ることも、必要と思います。

自分なりのフィルターにかけることによって、これまで言われてきたことと違った面を指摘することができたり、ほかの人には考えもつかなかった発見を見いだしたりすることもできるのです。

知識をそのまま受け入れるだけでは、知性はそだたない。 自分なりに解釈することで、知識は知性となり、知恵となる。

(P59)

世界を見るときの“観点”については前に述べましたが、その世界を受け入れ、自分なりに解釈することにも、その人その人なりの味付けがなされます。

「知識」は言わば“素材”です。料理の材料のようなものです。そこに自分の記憶や経験、解釈を通すという、言わば“料理”を施して、自分なりのかたちの「知恵」とするのです。(『「知識」の調理』参照)

他の人とはもとの「知識」からどのように変化した「知恵」になったかは異なります。

しかしそうやってこそ、「知識」は自分なりに活用できる「知恵」になるのです。

フーコーは言う。歴史は学ぶ目的は、過去を理解することにあるのではない。現在を見つめる観点を変え、現実を変えるためだと。

(P95)

「歴史」についてです。“History”の語源は“his story”だという話もあるように、「歴史」は物語です。

過去に様々な「事実」のつらなりや相互関係はあったのでしょうが、それが繋げられ、解釈されて、一つの「物語」としてこんにちに伝えられているのです。

これは、「夢」と似ているかもしれません。「夢」も、睡眠中に脳の記憶領域が刺激されて、起きていた時の様々な事実やテレビや映画で見たこと、本で読んだことなどの記憶が断片的に呼び起こされることによる考えられます。

あるいは刺激される場所として、過去の記憶などが呼び起こされれば、そういった要素も夢に入ってくるでしょう。

寝ている最中はそういった断片的な呼び起こされた記憶は、まさに“断片的”に次々と起こるだけです。

しかしながら、目覚めた瞬間にそれらが継ぎ合わされ、解釈されて、一つの“物語性”を持ったものとして、「こんな夢をみた」と述べられるのです。

なんだか、「歴史」も、そういった意味では「夢」と似ているかもしれません。

では、我々としては「歴史」をどう扱うか。過去をそっくりそのまま覚えて同じことがおきたら役立てようというのではありません(ましてや年号と出来事を記憶するなんてものでもなく)。

やはりフーコーの言うように、そこから得られる抽象的なこと、教訓のようなものを抽出して、現在・現実を見る観点を鍛える材料とするのが良いでしょう。

感情のマネジメントとは、感情を内と外に解き放つことだ。内に向けて感情を解き放つことが瞑想と悟りであるとすれば、そのような感情を外に向けて表現することが中庸である。

(P157)

内に向けて感情を解き放つことが瞑想と悟りであるとすれば、」という考えは、初めて触れました。でも、なんとなくしっくりきました。

瞑想や沈思黙考は、まあマインドフルネスのように呼吸に集中して雑念をその都度除けるとこもあるかもしれませんが、確かに「感情」を解き放つ(というか、おさめる)効果があると思います。

喜怒哀楽にほだされずに、感情を良い状態に保ち心と身体のパフォーマンスを最大限に活用できる状態にするわけです。

一方、外に向けて感情を表現するときに重要なのが「中庸」ということです。これもやはり、感情にほだされずに(感情の勢い任せに放出しないで)、周囲の状況や相手のことを考えるのです。

「怒り」にしても、必要な「怒り」か、「怒り」という感情を伴わせて自分は相手に何を伝えたいのか。伴わせる「怒り」の分量はどうか、など。なかなか難しいですね。

なぜなら彼の哲学は「はしご」だからだ。はしごは登るときには必要だが、登ってしまえば不要になる。上に登るのに役立ったはしごが、いくらありがたいとしても、はしごを頭にのせて暮らすわけにはいかない。

(P185)

私は、哲学は思考の触媒であると考えます。以前も述べましたが、様々な哲学者がいて、いろいろな場面に応じていろいろな解釈、あるいは生き方を提案してくれています。

それをいちいち自分の人生に取り入れて、ああやってみよう、こうやってみようとしていたのでは、なんだかちぐはぐは生き方になるような気もします。

そうではなくて、まずは自分の生き方というものを、なんとなく持っておくのです。それをちょっと高めるための「はしご」でも「踏み台」でも、あるいは「つばさ」でも何でもいいですが、手段として用いるのが「哲学」だと思います。

哲学者は「自分はこう考えた」といっているのですから(中には「絶対にそうなんだ」と押し付けるような人物もいますが)、それを自分の生き方にちょっと参考にさせてもらうのです。

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なかなか良い「言葉」がちりばめられた本だと思いませんか?

さて、結構な数の引用を載せさせていただきました。最初にこういった本の紹介は「引用の引用」になってしまうと言いました。

ある意味、先人の残した「言葉」が、著者というフィルターを介して我々に届けられるのです。

しかし考えてみますと、先人に直接会ってお話を伺うわけにはいかないので、我々は本であるとか、言い伝えなどを介してのみ、先人の言葉を聴くことしかできないのです。

そこには、必ずフィルターがあり、加工があり、あるいはその時代背景に合わせようという解釈も入ってくると思います。

それでは先人のメッセージの、そっくりそのまま原液が得られなくて困ったことなのかというと、そうではないと思います。

偉大な先人の言葉が、古典として今も昔も、どんな時代でも受け入れられるのは、それがどんな時代のどんな境遇の人にも当てはまるからです。

それを聴いた人のフィルターを通して、考え方、解釈など、あるいは自身の経験と照らし合わせたら、今現在の自分の生き方に応用しようとしても、必ず役に立つものだからです。

そういったものをこそ、「古典」と呼ぶのでしょう。

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