高校野球全国大会(甲子園)中止を機に「努力」と「目標」について考える

2020年は、コロナウイルス感染症の影響で春に続いて、夏の高校野球全国大会(甲子園)も中止になった。

高校球児たちの、これまでの「努力」が無駄になると感じている人もいるかもしれない。しかし私は、決して「努力」は無駄にならないと思う。

*****

考えてみよう。甲子園があれば、「努力」は無駄にならなかったのか。はたして、「努力」が無駄になる、ならないの境目はどの段階か。

甲子園で優勝した場合なのか。それでは優勝校以外は、「努力」が無駄になったのか。そんなことはないだろう。

それでは甲子園に出場した場合なのか。たしかに、全国から代表校が集まるわけであり、出場することに大きな意義はあると思う。

むしろ「努力」は、「努力してきた」ということが、いろいろ考えて、勉強して、練習して、「活き活きと人生を過ごせた」ということであり、まったくもって意義のあることだと思う。

*****

甲子園の中止により、「努力」が無駄になったというよりも、「目標」が消えてしまった、無くなってしまったことが、大きいと思う。

そもそも、「目標」を見つけることは、意外と難しい。とくに、自分を動かす原動力となるような「目標」は、なかなか見つからないこともある。

その職業ごとに、社会的な役割や使命はあるだろう。しかし、それとは別に個人の内発的動機を維持するような「目標」を見つけ、自分を活かした仕事をすることは難しい。

どうしても「収入のため」とか、「とりあえず社会のため」といった抽象的な「目標」で働き続けてしまう。

与えられた仕事をこなして、日々働いていると、「なんのためにこの仕事をしているのだろう」と思ってしまうこともある。

*****

高校球児たちに限らず、部活動などで全国大会を目指した人たちは、自分の好きなことをもとに、全国にはばたくことを「目標」として見つけることができた人たちなのだ。

部活動では、つらい練習や稽古、指導もあるかもしれないが、それを上回る「もっと上手くなりたい」「やっていて楽しい」ということもあったから、続けてこられた。

その最後の成果を発揮すべき大会が中止となったのは、一つの「目標」が消えたことであり、悲しいことではある。

しかし、忘れてはいけない。3年間近く練習した日々が、とても充実していたことを。

「目標」を作り、良い結果を得るのも、「努力」したことの価値ではあるが。しかし、「目標」に向かって日々練習したり、勉強したりしていた日々も、得難い人生のひとときなのだ。

「目標」は、日々の生活や仕事を輝かせる原動力となる。何ごとにも、小さくても「目標」を設定して、それに向かって「努力」することが、良い人生を送るコツなのだ。

最近、春の選抜校による甲子園での試合が予定されることになった。新たな「目標」を目指して「努力」の日々を過ごしてほしい。

%d人のブロガーが「いいね」をつけました。