自分なりに世界を豊かにとらえるために

書店に行くと、「哲学・思想コーナー」なんていうのがある。いろいろな哲学者ごとに著作がまとめられている。年代順になっていたり、国別に分かれていたりする。

なにかこう、デパートの売り場に、哲学が並んでいて、どれにしようかな、と考えている雰囲気があるように感じる。どの哲学を勉強しようかな、と。

デパ地下のお総菜コーナーに、いろいろなお総菜が並んでいる。肉料理、魚料理、サラダなど食材別になっていたり、和食、洋食、中華などと分かれていたりする。

我々はそれらを比較したり、自分の好み、あるいは栄養バランスを気にしたりして購入する。

さて、同じように、哲学コーナーに哲学書が並んでいると、次第に哲学同士の比較を始めてしまうのではないか。この哲学とあの哲学はここが違う、ここは同じ、ここは面白そうなどと。

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哲学はもともと、我々の世界のとらえ方や人間の生き方について考える学問だ。哲学者は、哲学を様々な切り口、考え方で我々に紹介してくれる人々である。

それはあたかも、世界や人生という「ごちそう」があって、哲学者はスプーンや箸やフォークなどといった食器のようなものにあたるのではないか。

ある哲学者は取り皿のように哲学を取り並べて、食べやすくしてくれたかもしれない。ある哲学者は箸のように、慣れないと使いにくいのかもしれない。

また、ある哲学者はストローのようであり、熱いものを急に吸うとヤケドすることがあるかもしれない。

哲学者の哲学、考え方を比較してしまうことは、スプーンが良い、箸が良い、ストローが良い、といった具合な比較をしてしまうように感じる。

もちろん、そんな比較はナンセンスである。食べ物の種類によって、スプーンが良いこともあるし、箸が良いこともあるし、ストローが役に立つこともある。

哲学において、プラトンが良いとか、カントが良いとか、ニーチェが良いといって、その一人だけに集中してしまうのでは、もったいない。

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一人の哲学者の考えについて、良く分からなくなったときには、他の哲学者の考えにも触れてみると、意外と納得することもある。

たとえば、ラーメンを食べるのにスプーンで食べようと苦労しているところに、箸が出てきて(使いこなせれば)役に立つように。また一方で、スープをすくうにはスプーンやレンゲが良いことが分かるように。

そして、いろいろな手段でいろいろな食べ物を食べやすくおいしくいただけるようになると、自分の中に、「この世界の食べ物のおいしい食べ方」とでもいったものが、形成されてくるのではないか。

哲学でも、いろいろな哲学者による考えを取り入れているうちに、自分のなかに「自分なりの哲学」が形成されてくるだろう

人間学にしても同様である。『貞観政要』が良いとか、『言志四録』が良いとか、あるいは『修身教授録』が良いといって、それぞれ読んでみると、自分の中に一つの「自分なりの人間学」が形成されてくるだろう。

宗教も、そういうものかと思う。『キリスト教』が良いとか、『仏教』が良いとか、あるいは仏教でも上座部仏教の考え方が良いとか、空海が好き、などいろいろある。

仏教のさまざまな宗派、人物の考え方を学ぶうちに「自分なりの仏教」が自分の中に形成されてくるし、仏教やキリスト教、ユダヤ教などの考えを学ぶうちに「自分なりの宗教」が形成されてくるのではないか。

そして、さらに上位になると、哲学や人間学や宗教を勉強していると、それらが自分の中で混ざり合い、分解・結合され、再構築されて「自分なりの世界のとらえ方」が形成されていく。

こういう考え方は、以前書いた『本から得たことを、頭の中で再構成すること』と似ているかもしれない。

我々は自分の感覚器官で世界を見ながら、先人の「世界のとらえ方」を学んでいくうちに、「自分なりにとらえた世界」を、自分の中に再構築しているのだろう。

自分の感覚器官でとらえられる世界の内容は、時間的にも空間的にも限られる。そこを補って、世界をより豊かに見せてくれるのが、「読書」に他ならない。

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