唯脳論 養老孟司 青土社/ちくま学芸文庫
この本を読んだのは、実は高校生のときである。進学ガイドかなにかで紹介されていた。
当時はそれほど医学に興味があるというわけでもなかったような気もする。「脳って面白そう」などと感じていたのかも知れない。それで、注文して読んでみたのだろう。
そのころから読書をしていたわけではない。最近のように多く読むようになったのは、ここ数年のうちである。
受験勉強を熱心にしていたわけでもないが、とくに読書をするわけでもなかった。ただ、こういった難しそうな本を読んでみようという気はあったらしい。
紹介では、著者は「東大の教授」だと言う。その時は、「へー、それは頭が固そうだな(失礼)」とくらいしか思わなかった気がする。
しかしその後、著者が出演されたテレビ番組を見たり、出版された多くの著書を読んでみたりすると、その「ひょうひょうとした感じで“社会”や“人間というもの”を鋭くえぐる」様子に惹かれた。
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著者の養老孟司先生は、解剖学者である。現在は退官されておられるが、東京大学の解剖学教室の教授として教鞭をとられた。また、非常に精力的に執筆活動もされている。
脳や身体性に基づく現代社会の考察について、数多くの著作を出されており、『バカの壁』などベストセラーになった著作も多い。みなさんも、「壁」シリーズなどの新書でお目にかかったことがあるだろう。
しかし、私はこの『唯脳論』が、養老先生の思想の根柢となっていると思う。これを読まないことには先生の思想のうわべだけのところしか感じられないのではないかと思う。
内容としては、解剖学者として長年「脳」につきあってきた経験から、脳というものはどういうものか、運動や感覚といった機能、生理学的特徴、そして意識や言語、時間などについて述べている。
たんなる解剖学、機能学の教科書とはっきり訣別されているのは、著者の幅広い知識や経験、文献や資料をひっぱってくる能力によると思う。
現代社会という「得体の知れないもの」を、「脳」という切り口で見た、思想の書である。
ヒトは本能が壊れた動物である。それが生きていくためには、本能に代わるものとして幻想が必要である。幻想は各個人のうちにあり、社会はその共通部分を「共同幻想」として吸い上げることによって成立する。
(P256)
動物は本能に従って生きることで、集団あるいは個体としての秩序を保ち子孫を残して生きていくことが可能となる。
しかし、人間では大きく発達した新しい脳による、本能を司る“古い脳”への抑制が強く、本能が抑え込まれていることが多い。
また、このことが動物とは異なった「思いやり」、「利他」、「慈悲」、「愛」や「自己犠牲」などの“人間らしい”生き方の要素を生み出しているのだろう。
科学や宗教もまた、「共同幻想」あるいはそれを保つ手段なのだろう。これらは「本能」に代わり、人間を秩序づけて生きていくことを扶ける。
「世の中の真実はこういったものだ」と万人に受け入れさせ、考え方の基礎とする「科学」、そして「こういう生き方、考え方が善いのだ」という「宗教」「哲学」。
教育というのも、新たに生まれ、人間社会に加わる「ヒト」という動物を共同幻想になじませて「人間」にするためのものかもしれない。
社会は暗黙のうちに脳化を目指す。そこではなにが起こるか。「身体性」の抑圧である。現代社会の禁忌は、じつは「脳の身体性」である。
(P257)
著者の言う「脳化社会」とは、社会のすみずみまで意識が行き届いている社会だと思う。
どこでなにが起きているか、電車の運行状況・込み具合はどうか、人出はどうか、あるいは天気は(予報ではあるが)どのようになる見込みか。
すべて把握できて、予測できて、同時に社会のすみずみまで意識(意)のままに操作することができる社会である。
コントロール可能なことを目指すのが、「脳化社会」なのではないか。そこでは、予測できないこと、不確かなことは排除される。そこで問題となるのは、意識的に操作できないものの代表、つまり「自然」である。
いかに道路を舗装し、全天候型の球場を作り、高い防潮堤を築いても、自然のわずかな底力あるいは、猛威にはかなわないことがある。
アスファルトを貫く可憐な花もあり、感染症の拡がりによって人間の活動は制限され、そして災害はいつも「想定外」の規模で我々に襲いかかる。
そして一番やっかいな「自然」は人間である。「身体性」と言われるこの人間の身体の特徴は、予測不可能であり、意外なことがいつもおきるものである。
いつなんどきも「カッとして」怒り出すかもしれないし、いつ体調を崩して病気になるかも分からない。自分のこともままならないのに、他人のことや社会のことを考え出すと、途方もないことである。
「事実は小説よりも奇なり」というが、小説であればAIでも書けるだろう。しかし、実際に人間社会で起ることは、AIにも予測不可能なことばかりだろう。
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我々としては、この「脳化社会」で生きていくためには、どのようにしたらよいか。
今のところ人間社会という共同幻想は、「科学」「宗教」「哲学」などによって裏打ちされている。それらをしっかり勉強し、世の中がどのように「脳によって」成り立っているのかを知ることが必要である。
そして、脳が「本能」の暴走を起こさないようにして、共同幻想に従った生き方が、無難な生き方なのだろう。
ただ、イノベーションを生み出し、人間社会にさらなる前進をもたらすのは、「脳化」された予定調和な話だけでは難しいと思う。
時には「本能」やさらに深層から湧き出すのかもしれない「好き嫌い」や「違和感」、あるいは「インスピレーション」などという要素も、大切にするのが良いと思う。