「待つ」ということ 鷲田清一 角川選書
待たなくてよい社会になった。待つことができない社会になった。
(P7)
この冒頭の文章からも、いろいろと考えさせられます。
現代は、電車は時刻通りに来ます。会議は予定通り開始されます。待ち人は遅れるのであれば、連絡をよこします。
すべてが予定通りに進む社会となり、決められた予定に従って生活していれば、ほとんど自分の思った通りにことが進む社会となりました。
これは同時に、予定が分からず、どうなるか分からずしかたなく「待つ」ということをしなくてもよい社会、逆に言えば、「待つ」ことができない社会となっていると思います。
しかし、そんな中でも自分の意のままにならないことも多いのは確かです。災害や感染症といった自然もそうでしょう。台風が思わぬ被害をもたらすこともありますし、地震予知も予想の域を出ていないと言えます。
また、自然の一部である「人間」という生きものも、日頃相手にしているにもかかわらず、自分の意のままにならないものです。
そして、人間にかかわる「病気」「経済」「社会」なども、ある程度科学的な解析はなされて、場合に応じた対応は研究されてはいますが、意のままに操作できるものではありません。
病気であれば過去の知見をもとに治療をして、その結果を待ちます。経済であれば同様に介入をして待ちます。しかし、同じ病名でも個人によって経過は異なりますし、経済も様々なファクターが作用して、まさに「複雑系」としての様相を呈します。
ある程度の対応をして、あとは「待つ」ということも必要です。ときには「天命を待つ」という態度も必要です。
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この本では「待つ」ということを、場面に応じて多角的に見て、二字熟語の単語に章立てて進められて述べられています。焦れ、予期、徴候、自壊、冷却、・・・といった具合です。
その諸相について、「待つ」ことに関わる著者の考えとともに、哲学書や文学作品を引きながらていねいに説いています。
著者は哲学者であり、生き方、仕事、言葉などについての著書も多数あります。難解な文章の著書も多いですが、哲学の世界をわかりやすく案内してくれる哲学者の一人だと感じています。
この本は、「待てない」社会に生きる我々にとっては一読の価値がある、いや一読の必要な一冊だと思います。
「待つ」は偶然を当てにすることではない。何かが訪れるのをただ受け身で待つということでもない。予感とか予兆をたよりに、何かを先に取りにゆくというのではさらさらない。ただし、そこには偶然に期待するものはある。あるからこそ、何の予兆も予感もないところで、それでもみずからを開いたままにしておこうとするのだ。その意味で、「待つ」はいまここでの解決を断念したひとに残された乏しい行為であるが、そこにこの世への信頼の最後のひとかけらがなければ、きっと、待つことすらできない。いや、待つなかでひとは、おそらくはそれよりさらに追いつめられた場所に立つことになるだろう。何も希望しないことがひととしての最後の希望となる、そういう地点まで。だから、何も希望しないという最後のこの希望がなければ待つことはあたわぬ、とこそ言うべきだろう。
(P19)
「待つ」について、著者はこう述べます。偶然を当てにするでもなく、受け身でもない。自分としては、なりゆきを「信頼」して、「待つ」わけです。
今ここで解決できることは全て行ったうえで、それ以上の解決は断念して、しかし「信頼」はかけらでも握ったまま「待つ」のです。
そういえば、“今ここ”に注目するというのは、「マインドフルネス」の基本的な考え方です。
現代社会で問題になるのは、未来を心配する心や、過去を後悔する心です。これらに対しては、精神心理学的なアプローチやポジティブ思考など、様々な対処法が考えられています。
その中で、「マインドフルネス」ではそういった過去や未来に心を煩わされず、“今ここ”にスポットライトを当てて、心を限定的にして落ち着かせ、今できることに推進力をあたえます。
しかし、やるだけのことはやって、後はどうなるか分からないこともあれば、結果が出るまでにはある程度、ときには長い時間が必要なこともあります。
そういった場合に大切なのは、この先どうなるのか、どういう結果が出るのかと未来を心配するのではなく、やり残したことがあったのではないかと過去を後悔することでもありません。
さらに、今ここにおいて、とくにすべきことがないのであれば、あとは「待つ」のみです。そこに必要なのは「信頼」です。
心配や後悔ではなく。はたまた過度に希望を抱くのでもなく。「待てばなんとかなるのではないか」という「何も希望しないという最後の希望」をうっすらと感じて、ただ「待つ」という態度がいいのではないでしょうか。
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待つことが必要な具体的事例について、以前ご紹介しました『自分をいかして生きる』からも引用させていただきます。
教育の現場でも医療の現場でも、あるいは恋人同士の関係においても、あらゆる対人姿勢は「待つ/待たない(待てない)」という両端を持つ軸線上に散らばっている。そして待つことは信頼に、待たないことは怖れに由る。人間はこの二つの感覚の間で揺れている。
(西村佳哲 『自分をいかして生きる』 P120)
子どもの教育は学校あるいは家庭で行われます。職場などでは後輩や部下に対して仕事の、あるいは人生の教育が行われます。
教育の成果は、お金がかかることは事実ですが、一般的な商品と異なり等価交換ですぐに得られるというわけにはいきません。
成果が明らかになるためには、農業よりもはるかに長い期間を「待つ」必要です。教育者が持ちえるモノサシによっては、成果がはっきりしないこともあります。あせることもあります。
しかし、ある程度教育したあとは、成長を期待して、いや「信頼」して「待つ」ことが必要です。どうしても変化が見られず「信用」できないからと、発芽した芽を引っ張るようなことをしてはいけません。
もちろん、ときどき観察してメタな(穿って言えば大所高所からの)見方から、方向性が間違っていないかなどを気にし、声がけや対話の場をもつことも大切です。
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医療においても、「待つ」ことは必要です。ある症状を有する患者さんに対しては、いろいろ可能性を考えて診察や検査を行います。
その結果に基づいて薬を処方したり、必要な処置をしたりします。そういった対応の結果も、疾患にもよるがすぐには現れないことが多いものです。
「もしかしたら間違っているかもしれない」「もっといい治療があるかもしれない」と思うこともあります。もちろん、複数人が集まってカンファレンスなどで話し合ったうえでベストと考えられる方針を決めます。
そして、結果が出るまでには、ある程度「待つ」ことが必要です。
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恋人同士についても、あるいはその後の結婚生活についても、「待つ」ことは重要なことです。
人は「性格の不一致」に惹かれ、「性格の不一致」で別れる、と言われます。
言語化された言い訳など、ほとんど“後付け”であり、危機などといった「一時的な状況」で物事はどちらにも転ぶものです。
「一時的な状況」に対する方策の一つも、「待つ」ことなのでしょう。