知性を磨く 田坂広志 光文社
田坂広志氏の著作について、ご紹介するのは3冊目かと思います。
多くの著作の中でもこの本は、私が田坂氏の「仕事論」に、そして「知識と智恵」という考えにのめり込むきっかけとなった本であり、氏の考えの基盤が盛り込まれていると思います。
いま、社会に漕ぎ出し、自分の職業について修業を重ね、「プロフェッショナル」を目指そうと考えているあなた、単なる「プロフェッショナル」でいいのですか?
これからの時代、「専門の知性を持ったプロフェッショナル」を超えた、「統合の知性を持ったスーパージェネラリスト」が必要とされます。
AIに負けず、活き活きと仕事を続けたいみなさん、必読の一冊です。
「知能」とは、「答えの有る問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力。
「知性」とは、「答えの無い問い」に対して、その問いを、問い続ける能力。(P15)
つまり、「知能」とは、学校の定期試験や入学試験のように、あらかじめ問いとそれに対応する答えが決まっていて、その「正しい答え」を見出す能力です。
正しい答えは一つだけなので、他は誤答となります。正答の数によって点数をつけることが可能で、試験の合否であったり、入学の可否であったりを決めること、あるいは評価を定量的な評価を行うことができます。
ある程度の問い→答えのパターンは考えられ、教科書やさまざまな文書、これまでの記録などに記載されていることになるので、そういったいわゆる「教科書や過去問の勉強」で対応することも可能です。
一方、「知性」とは、答えが無い、あるいは一つとは決まっていない問いに対して、考えたり、これまで知られている情報を集めたり、自分の経験と照らし合わせたり、他人と相談したりして、決してあきらめず、問い続ける能力です。
その「問い」としては、たとえば「我々の人生の目的は何か」であるとか、「なぜ、生命は進化していくのか」などといった哲学的、宗教的なものもあります。
しかし、そんな深遠な問いだけではなく、我々の生活や仕事なかでも、答えの無い問いはありふれています。
たとえば、「車を買うときにどの車種にしようか」であるとか、「部下の移動をどのようにしようか」、あるいは「この患者さんの診断をつけるには、どんな検査をしたらいいか」などといったことがあると思います。
ある程度時間がかかるかもしれません。これは知能で答える試験などでは時間などかけられないこととは異なります(もちろん、患者さん相手では急ぐ場合もあります)。
そういった「答えの無い問い」に対応するにあたって、「割り切る」のではなく「精神エネルギー」をもって「腹を決める」心の姿勢が大事と説きます。
「精神エネルギー」はじっと問いつづける力であり、また河合隼雄の「愛情とは、関係を断たぬことである」という言葉における「愛情」を抱き続けることです。以前ご紹介した『知の体力』にも通じると思います。
・・・ここで言う「修業」とは、実は、特殊なことではなく、素朴なことである。
自分の能力を少し超えたレベルの仕事に集中するという時間を、定期的に、継続的に、数年間というオーダーで持つ。(P48)
精神のエネルギー、スタミナをつけるために「修業」が必要と説きます。
修業とは、上記のようなこともあるでしょうし、経験をつむこと、知識を智恵に昇華し活用することもあると思います。
知識を智恵にすることは、様々なところで描きましたが、本書では次のように述べられています。
「書物」を読むことによって学ぶことのできる「知識」は、「いかに速く、いかに大量に、いかに効率よく学べるか」という秘訣が、たしかに存在する。
・・・永年の「経験」を積むことによってしか掴むことができない「智恵」には、「いかに速く、いかに大量に、いかに効率よく学べるか」という秘訣は存在しない。(P67)
知識を活きた「智恵」にするには、永年の修業を続け、経験を積むことが必要です。
ただ、「智恵」という概念を持たないで知識吸収の旅を続けているだけでは、智恵は得られないと思います。
「できるだけ、出会う出来事から知恵を得よう、もちあわせの知識も智恵になるようにしよう」という気持ちを持ち続けることが必要と思います。
「想像力」とは、「未来に起こる出来事の展開を具体的に想像し、そこから最善策を選ぶ力」のこと。
「反省力」とは、「過去に起こった出来事の経緯を仔細に追体験し、そこから改善策を学ぶ力」のこと。(P153)
経験から智恵を得るには、「反省」が重要です。
「反省」といっても、「すいませんでした。もうしません」という「懺悔、後悔」ではありません。そういった主観的なものではなく、客観的なものです。
ことの次第を思いだし、「そのとき、どう考えていたか」「あの人の様子はどうだったか」と実際の当事者の心情も考え、追体験すること。
そして、そこから得られ、次に生かすことができるような「智恵」を徹底的に摑もうとすることです。
著者は、「知恵の習得法」としてこの「反省の技法」とともに、「私淑の技法」も述べています。
「私淑」とは、「この人が私の師匠だ」と心に定め、その師匠の姿から「智恵」を様々な形で学ぶこと。(P163)
決して言葉で言い表せない知識があります(師匠が寡黙なのも少し困りますが・・・それは別として)。いわゆる「暗黙知」というやつです。
そういったものは、まさに「背中を見て」学ぶことが必要です。
師匠と考える人物はなにも実際の上司や先輩に限らず、会うことのないだろう有名人や、実際に会うことのできない歴史上の人物でもいいわけです。
そういった人物を「師匠」と決めて、その姿から智恵を学ぶことを「私淑」といいます。
「リズム感、バランス感覚、心」などといったマニュアルや練習では得られないようなものを学ぶには、この「私淑の技法」が必要です。
たとえば研修医にしても、指導医について「知識や技術」のみを学ぶのではなく、せっかく曲りなりにも医師としてやっている指導医についているのですから、その姿から「医師としての心」であるとか「患者さんとの話し方のリズム、間の取り方」なども学んでほしいものです(もちろん師匠も常に勉強中ではあります)。
「二〇世紀の知性」が抱えていた「三つの病」・・・「分離の病」
「知と知の分離」
「知と行の分離」
「知と情の分離」(P214)
「知と知の分離」としては、知識の専門化があります。たしかに一つの専門分野を深く考察する研究によって、それぞれの専門分野は発展してきました。
しかし、専門分野に細分化されたことにより、縦の結びつき(その分野のなかでの連絡)は強くなったものの、横の結びつき(分野間の連絡)が弱くなっています。
診療においても、「科」という壁を医療者は自分の職業の種類が違うくらいに考えて居るかもしれませんが、患者さんにとっては、どれも同じ「医者」と思うかもしれません。
「知と行の分離」は、理論と実践の分離のことです。研究内容が実臨床(患者さんを診療すること)に直結しないこともあります。
あるいは、自分が読んだ論文などの知見を、実臨床に応用しようという意識が不足していることもあるかもしれません。
「知識」を修得して「実践」することが大事です。知識は実践してこそ、「智恵」となり活きてくるものです。
しかし一方で、理論と実践は互いにクルクルと関係しあうものではないかと思います。
我々は知識や理論を実践して現実に応用すると同時に、実践した現実から理論を生み出さなければなりません。
つまり、診療においてはエビデンスを臨床に応用すると同時に、臨床からエビデンスを生み出さなければなりません。
日常診療で患者さんを診て、疑問に感じた点は検索・検証し、ある程度の理論体系を生み出すことができるかもしれません。
それが、これまで報告の無いものであれば、学会で報告したり論文として報告したりできるわけです。
「知と情の分離」は、知識と現場の実情、喜怒哀楽といった感情、あるいは人間性との分離でしょう。
お金という指標のみで動かす経済優先の政策や、買った人のことを考えずに売れ行き重視、市場重視での商戦、商品開発などです。
「知」は、何度も書いていますが、「人間心理の洞察」など「情」と結びつけることによって、「智恵」として活きてくるのです。
西田幾多郎先生もおっしゃっています(これで3回目ですかね?)。
富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるのではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。(善の研究 岩波文庫 P202)
このように、「知」が人間性を離れたものと考えるから、AIに任せようなどという考えも出てくるのではないかと思います。
たしかに、「知と知の統合」「知→行」くらいはAIにもできるかもしれません。
しかし、「行→知」「知と情の統合」は難しいでしょう。前者はちょっとAIにもできそうですが、後者はまったくAIには無理でしょう。
*****
最近あらためて読み直しても、以前気づかなかった点に付箋を追加したりと、比較的少ない文章量ではありながら、密度の濃い本です。
また、田坂氏の著作は詩のような散文形式となっていることも多く、展開にリズムとストーリーが感じられます。
改頁によって前頁で示した問題点からの展開が現れるという文章レイアウトも多く、読みやすさを出していると思います。
もちろん世の中には「問い→答え」の決まっていること(たとえば、会社や店舗のマニュアルであるとか、ガイドラインであるとか)はたくさんありますので、そういった事項を覚えることは必要です。
しかし新生活に入ったみなさん、これまでの「問い→答え」を追っかける考え方から少し脱却して「知性」、とくに「統合の知性」も磨いていきましょう。