過去の影のもとで生きる

2020年3月23日

朗読者 ベルンハルト・シュリンク 松永美穂 訳 新潮文庫

読書の仕方にも黙読、音読などあり、まずほとんど黙読していることが多いと思う。分かりにくいところを、ときどき小声で音読してみることはある。

他に、読み方(速読とか精読とかではなく、文字の発現の仕方?)としては、朗読があるだろう。これは、音読よりも少し感情を込めて抑揚をつけて読むような形式か。

読み聞かせという形式もあり、これは子どもに絵本の読み聞かせをしたりするということが多い。文章だけの本を読み聞かせることもあり、これは朗読になるか。

ということで、本を読むことに興味がある私が、ふと書店で目にしたのがこの『朗読者』という本である。

「なにか読書好きの人の話か」と興味をもって手に取り、しばらく立ち読みしていたが、内容に片足を引き込まれて購入した。

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ストーリーについてはここでは詳しく述べないが、ごく簡単に言うと少年の時代に朗読というつながりをもって親しくなった年上の女性と、時間経過によってうまくいかなくなる、という話である(・・・簡単過ぎである)。

そのうまくいかなくなる原因として「過去」があり、主人公の青年と女性の立場も、その「過去」が大きく分かつことになっている点が、辛いものである。

この本は、「過去」や「歴史」が日常の生活にどのような影響を及ぼすかということを、考えさせてくれる。

もちろんフィクションであるから、面白く描いているということはあるかもしれない。しかし、実際にこういった出来事はあっただろう。

われわれも、自分や家族がこうして生きている背後には、何かしら「過去」や「歴史」が関与しているものだと考えてみる、一つのきっかけとなるかもしれない。

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歴史を学ぶということは、過去と現在のあいだに橋を架け、両岸に目を配り、双方の問題に関わることなのだ。(P205)

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「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」という言葉がある。ドイツ(プロイセン帝国)の鉄血宰相ビスマルクの言葉である。

経験とは、自分が過去に遭遇したことのなかで、次に生かせるようなことを得たものだろう。しかし単に経験してみて、そこからなにも得るものがなく、体験する前と何も変わっていなければ、その出来事は「経験」のままである。

「経験」することにより、それ以前とは違った自分になるのが「体験」だろう。違ったかどうかは思い込みでも良くて。

“経験に学び”という点は、経験で過ごしていないだけでも立派なことだったのではあるが、まだ自分の世界の域を出ていないのだと思う。

もちろん、経験したのだから、次に同じようなことが起きれば「経験」を活かして前回とは違ったリアクションをとったり、不利を避けたりすることができるだろう。ただ、そうしているだけでは、個人としては支障なく生きていけるかもしれないが、「成長」が乏しいのではないか。

いや、世の中みんな「成長」をも常に求めてギラギラ生きているわけではないので、そういった意味では大多数の人が「愚者」ととらえられてもしょうがないのかもしれない。「賢者」なんていう人はそうそういないのだ。

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自分は賢者ではないだろうけれど、賢者のように様々な出来事から知識・知恵を取り入れて生きていこうとすれば、自分の経験だけでは心もとない。そういったときに「歴史」の勉強が役に立つのである。

また、歴史を学び、そのパターンであるとか、人間の思考や感情の機微について触れておくと、自分の日常で起った「経験」も、その歴史の機微を織り交ぜることによって、より有益なものになるのではないだろうか。

そして、「歴史を学ぶ、歴史から学ぶ」ということは、自分が現在と過去の橋渡し役となって、その橋から両方の向こう岸を眺めるのである。

過去のあの問題は現在のこの問題にかかわっている。現在のこの問題は過去のあの問題に根差している。ということを把握する。

そして、そのつながりのパターン、過去のそのとき人々がどうしたから、そうなったのか、などを知り、現在に活かすのだろう。

そのとき、あくまで傍観者ではいけない。両方とも体験した気分が大事である。そのためには、過去のそのとき、自分だったらどうするか、あるいは現在のこの問題に、過去を知った自分ならどうするか、という「自分事」にする気持ちが必要なのではないか。

それが、「双方の問題に関わる」ということではないだろうか。

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「過去に固執することは過去を抑圧することの裏返しに過ぎない」

「(過去の)克服は存在しない。しかし、過去が現在においてどのような問いや感情を引き起こすのかを意識しつつ生きる生というものは存在する」

「過去を片づけてしまうことなどけっしてできない。過去のおぞましさが、けっして忘れられ得ないほど甚だしいからというだけではない。過去が、わたしたちの文化的・文明的な在り方を脅かす事柄について気づかせてくれるから、というだけでもない。過去は、あらゆる道徳的なテーマや問題をはらむ素材でもあるのだ」(P256)

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これは、著者のシュリンクが週刊誌への寄稿のなかで「過去」について述べた記載であり、本書の文庫版訳者あとがきに載っている。

「過去」との付き合い方について、簡潔かつ要点をついて記載されていると思う。

「過去を変えることはできない」、起こってしまった事実を変えることはできない。

しかし、「過去の解釈を変えることはできる」、これはアドラー心理学の重要なポイントである。

たとえば、いわゆるトラウマがあるとする。「私の足が遅いのは、子どものころに満足に靴を買ってもらえなかったからだ」、などと。

「子供のころに満足に靴を買ってもらえなかった」という事実は存在し、それを変えることは今更できない。

その事実を、「私の足が遅い」原因としてとらえている。そこには、現時点での努力に対する放棄や未来への失望感があるのかもしれない。

しかし、「子供のころに満足に靴を買ってもらえなかった」としても、足の速い人はいるわけだし、今から練習すれば、少しは足が速くなるだろう。

その「過去の事実」をどうしようもない原因ととるか、今練習をしない「言い訳」とするかで、違いがある。練習しないという「目的」に「過去」を用いるという点で、アドラーはこれを「目的論」と呼ぶ。

前者では、そう考えていたところで、とくに変化はない。ああそうですか、といった具合である。それ以上進展はない。

後者では、そうかもしれないけど練習してみたら、ということが言える。自分でもそう考えられるだろう。考える前途が拓けるわけである。

過去の克服(過去を変えること)はできないとしても、自分がその過去からどのような「問い(考え方)」や感情を引き起こしているのかを、冷静に見つめ、未来につながる思考ができればと思う。

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戦争や大災害など大きな出来事は、我々の文化的・文明的なことに大きな影響を及ぼす。

日本文化に特徴的な一期一会やわびさびなどといった要素も、災害が多く、明日はどうなるか分からないという日本の風土だからこそ、生まれたものかもしれない。

また、とくに戦争はのちの世にも禍根を残すものである。本書でもそうだが、道徳的に重苦しいテーマが過去から与えられることは多い。

最近は、歴史の、その「過去」を、アドラーのいう「目的論」にしてしまっている現状が多い気がする。

たとえば二国間の戦時中の問題を、現在の自国の優位性を保つために持ち出す国など。

正しく「歴史を学び、生かす」ということは、少なくとも「過去」の過ちは繰り返さず、「過去」を自利の目的とせず、弁証的に解決を模索することだと思う。

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