『風の谷のナウシカ』から考える

2020年3月15日

ナウシカ考 赤坂憲雄 岩波書店

宮崎駿作品は鉱山のようなものだと考える。掘れば掘るほど色々な鉱石や宝石が発掘される。かなり深いところまで色々埋まっている。

まあ、宮崎作品に限らず、小説などの文学作品や哲学・宗教の文章、絵画や音楽など芸術作品もそういうものかもしれない。

掘るには「道具」が必要だ。これまでの経験や読書などから自分の中に入手し準備した「道具」が。

「道具」が心もとないと、なかなか掘り下げることができない。しかし、いったん手を引いて、しばらく経験や読書を積んで、つまり新たな「道具」を入手したり、磨いたりしてから、再度取り掛かると、掘り進めることができることがある。以前とは違った系統の発掘物が見つかることもある。(掘った鉱石をどのように使うかも大事だが、それはまた別の機会に)

一度読み進めるのを挫折した本も、しばらくしてから読み直してみると、以前よりは分かる気がする、別な視点からみることができるのは、こういうことだろう。

読む人、見る人の「道具」の揃え方、磨き方によって、同じ作品でも得られるものが違ってくる。

まず、私はアニメ作品『風の何のナウシカ』が好きだ。子どものころから見ている。当時は家に録画のためのビデオが無かったので、母親の実家で録画してもらっていた。それをお盆などで母親の実家に行ったときにしか見られなかった。

子どものころには、まだ内容についていけず、失礼ながら瘴気マスクを装着した顔を「そういう顔の人種」だと誤解していたこともある。

内容についての理解も浅く、本当に幼少の時分は単におもしろい話として見ていたのではないかと思う。『天空の城ラピュタ』とともに、何度も繰り返しみていた。

その後、ある程度社会のことが分かってくると、作品に込められた意味に気づくようになってきた。

環境破壊・汚染、技術の問題といった、科学技術の面での諸問題。自然との共存、友愛、自己犠牲といった道徳、人間学、宗教・哲学的な要素。

左脳にのしかかる考えさせられる内容と同時に、右脳にのしかかる久石譲の素晴らしい音楽が、私の思想や音楽を支える柱の一本を作っていると思う。

中学生になると、学級図書のようにワイド版が教室に置いてあったので、コソコソとみていた。あまり見入っていると(見入っていたのだが)、変なヤツと思われるのを避けていたのかもしれない。

そろっていなかったので全巻読んだわけではないが、アニメ版の話は序の口であり、さらに広い深い世界があることを知った。

結局、マンガもほぼ全部読むことができたのは、社会人になってからであった。同時に『ナウシカ解読』や『はじめての宗教学:『風の谷のナウシカ』を読み解く』などの解説や考察の本も読み、宮崎駿作品の広大さ、奥深さを改めて感じていた。

私の成長とともに、とぎれとぎれではあるが、折に触れ合流した作品であり、私の乏しい思想の成長につきそってくれた作品だと思う。

そういったなかで、最近この本に出会った。著者は民俗学、日本文化論がご専門である。

何ごとにあたるにしても、まずは切り口が重要である。鉱山も、採掘孔の場所が重要である。本書は『風の谷のナウシカ』を一編の思想書ととらえ、その源流から個々の要素(風の谷の人々、腐海の人々、黙示録としての展開など)について独自の切り口で見せてくれる。

自分の好きなことを様々な切り口で見るというのも、楽しいものである。

大部であり、読むのが大変そうという印象も受けたが、ふんだんに入れられたマンガ版からの挿入と、引用が飽きさせず、疲れをとってくれる。なにしろ原作を好きな人にとっては、早く先を読みたいという推進力を保たせてくれながら、読み進めることができる本である。

そういえば、東日本大震災のあとに、つかの間、技術の非可逆性ということが語られたことがあった。人間は一度手に入れた核(原爆=原発)のような科学技術を、たとえいかなる事故が起こったとしても手放すことはありえない、将来に向けて、あらたな技術の開発によって技術の負債を返済してゆくことしかできない、といった趣旨であったか。(P226)

たしかにあの日、われわれは原発の危険性をまざまざと感じた。しかし、その恩恵による豊かな暮らしを棄てる、つまり節電などにより(今よりは)不自由な暮らしに戻る、ということは考えない。

新たな技術で、どんな地震でも、どんな大津波でもコントロール可能にしようとする。地震を予知し、耐震構造を備え、巨大な防波堤を作る。

ある程度、それを目指すことは重要である。これまでの技術発展もその気概で進められてきたのだし。

しかし、なんでも思い通りにできるというのは、自然相手の場合はありえないのだろう。それは神の位置であり、人としてはその位置にたどりつこうなどと不遜なことは考えず(その気概は大事だが)、漸近線のように近づいていく気持ちでいいのではないか。

陳腐な言葉かもしれないが、「自然への畏敬」なんて言葉はとうの昔に忘れられていた気がする。

「備えあれば憂いなし」ではなく、「備えあっても憂いは忘れず」でいいのではないかと思う。

これは経済成長にもつながる話だと思う。いつまでも成長状態を望むのではなく、ある程度身の程を知り足るを知る「小欲知足」「吾只足知」の精神で、考える必要があるだろう。

災害が多く、仏教思想、キリスト教思想、儒教思想も含め様々な思想を「和える」ことが得意な「和をもって貴しとなす」日本は、世界に向けてこういった精神を発する役目があるのではないか。

本書のなかでも取り上げているロレンスの『黙示録論』のなかに、こんな言葉があった。すなわち、「書物のもたらす真の愉悦は、それを何度でも読み返し、そのたびにそれが以前とは異なったものであることを知り、他の意味に、すなわち意味の別次元に出あうことのうちにあるのだ」と。(P344)

私の『風の谷のナウシカ』に対するこれまでの付き合い方もそうであった。わけも分からず見ていた子ども時代、社会のことが分かってきてから見た時代、様々な思想が分かってきてから見た時代と。

アニメやマンガの絵も言葉もストーリーも30年以上変わっていない。しかし、その鉱山からどのような鉱石、ときに宝石を採掘できたかは、経時的に違っていると思う。

この引用は本編中にあった『風の谷のナウシカ』とは直接的には関係ない本からの引用であるが、私の、いや全ての人々の本との付き合い方の、ある一面を示している。

また、こうした別の視点との出あいであるとか、芋づる式に別の本と出あうことは、本編からの寄り道だとはしても、これまた読書の楽しみでもある。

ヴ王の名言「失政は政治の本質だ」のマネではないが、「寄り道は読書の本質だ!」。

他には

風の谷のナウシカ
宮崎駿 徳間書店

原作です。

読んでいると、知らぬ間に日が暮れたり、日が昇ったりします。

何度読んでも、そのたびにはまり込みます。

一家に一つといった作品です。

ナウシカ解読
稲葉振一郎 窓社

ユートピアの臨界と副題されており、ユートピア思想の限界、技術の限界などの視点から考察されています。

現在は新装版が出ているようです。

はじめての宗教学
正木晃 春秋社

著者は仏教者であり、密教関係の著書を多く著しています。

登場人物を密教の神になぞらえたりと、宗教学的な視点で「ナウシカ」を考察している面白い本です。

宗教にも興味がある人、ナウシカの宗教的な面を考えたい人にはおすすめです。

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