マインドフルネス 宗教・哲学・医学とともに

2020年3月7日

マインドフルネス最前線 香山リカ サンガ新書

私がマインドフルネスに興味をもつきっかけとなった本です。同じサンガ新書は仏教関係の新書であり、以前ご紹介したアルボムッレ・スマナサーラ師の『怒らないこと』もあります。

マインドフルネスブームの比較的初期に出版された本であり、“最前線”というにはやや古い本にあたるかもしれませんが、マインドフルネスについては、くまなく記されていると思います。

その後、マインドフルネスが世の中で関心を持たれるようになりました。それにともない実践的な方法論の本を中心にたくさん出版されています。

最近の傾向としては、「宗教性を排除する」という、マインドフルネスを受け入れやすくする要素であったことが、少し問題視されているかもしれません。

無機的に、ただ自分の行動を肯定して遂行するだけでいいのか、と。そういった問題点についても本書では議論されています。

マインドフルネスの元となった仏教の思想もおさえておけば、マインドフルネスは人間として生きていく上での大きな力になると思います。

この本では、マインドフルネスについて精神科医の香山リカさんを中心に哲学、仏教、宗教学、あるいは心療内科の第一人者との対話形式で構成されており、マインドフルネスを様々な分野との組み合わせで学ぶことができます。

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・・・やっぱり一回とられるんですよね、こういうものが生じた、生起したということを。その中身・内容をというよりは、むしろ外から見た、そういう思いの生起それ自体を、一つの出来事として、いわば見物するんです。

怒りというものが生じたら、怒りに没入して、怒ってしまわずに、怒りがあるととらえる。何か心配ごとがあるとしたら、それに没入してしまわずに、心配というものがそこに生起していると、あくまでも「場所」的にとらえる、というような。そういう諸々の想念を、取り払ってしまうのではなくて、単にそこに存在していることとして、その外から観るわけです。(P32)

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マインドフルネスは、主に瞑想をメインに、自分の「今ここ」に集中することによって、雑念にまみれた思考状態を落ち着かせます。

とはいっても、瞑想!なんて気張って目を瞑ってじっと座っていても、次々に雑念が生じては押し寄せてきます。脚が痛い、何分経ったか、あの書類はどのように仕上げよう、これ効果あるのかなあ。

何にも集中しないでじっと過ごすというのも難しく、雑念に気がいってしまうので、呼吸に集中するという方法が、よく勧められています。吸う息を何秒と数え、吐く息を何秒と数え、あるいは呼吸の数そのものを数えることで、呼吸だけに集中するわけです。

そうすると、浮かんでくる雑念は、浮かんだ瞬間はしかたないですが、すぐ呼吸に意識を戻すことによって、気にしないですむわけです。

雑念の中には怒りであったり、心配であったりもあります。そういう雑念が浮かんだら、その内容にとらわれるのではなく、ただ「怒りが出た」「心配が出た」と客観的に、なかば傍から見ているように、他人事のようにして、すぐに気持ちは呼吸に戻します。

無理に雑念が生じないようにしようとか、生じたら忘れようなどとがんばらないで、「あ、出た→呼吸」で終わらせます。

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・・・誰もが自分の実況中継に没頭するのは、やや危険な気もします。徴兵されても「今軍隊に入りました・・・銃を握りました・・・」と評価なしで自分を中継しそう。(P55)

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マインドフルネスはもともと仏教の瞑想や坐禅を源流にしており、米国のシリコンバレーでいち早く取り入れられ普及しました。

もともと米国では、鈴木大拙らによる禅の文化は普及しており、スティーブ・ジョブズなどの逸話も有名です。

しかし仏教の宗教性が、キリスト教国である米国ではなじみにくいからでしょうか、マインドフルネスでは宗教性はほとんど排除されています。

マインドフルネスによる瞑想という行為(状態といったほうがいいという考えもあります)によって、多忙なシリコンバレーのIT企業従事者は、ストレスフルな状態を改善し、新しアイデアを生み出しているようです。

座っての瞑想がメインのマインドフルネスですが、歩く瞑想や食べる瞑想などいろいろあります。要するにマインドフルネスとは、「自分が今ここで行っている行為に集中して(マインドフルになって)、雑念にまみれた状態(マインドレスな状態)を解消します。

しかし、私はマインドフルネスを効率向上、能力向上のためのツールとして使用することに、どうかという気がします。

自分の「今ここ」の行為に集中し、感情や雑念を排して淡々と遂行していれば、シリコンバレーのような業績が出るという面もあるかもしれません。しかし、上に引用したように極端な話ですが戦争に駆り出されて、淡々と自分のすべき行為を実行していく、というのもどうかと思います。

それに対応するためには、もともとの仏教の思想にある慈悲や八正道などの考え方も、少しとりいれるべきだと思います。

要するにマインドフルネスは一つの「道具」です。西田幾多郎も言っていますが、人格的欲求、人間学なき道具・技術の使用は「悪」となりえます。

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・・・ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネスはそれを実践する人を“悟りの境地”に導いたり特別の教えを新しく与えたりするものではなく、脳の中やからだ、さらには自分の周囲で起きているすべてのことに一つ一つ目を向けさせることにより、その人がいる世界(精神的にも物理的にも)をぐっと広げ、本来の力を十分に発揮できるようにする方法をいうことであった。つまり、マインドフルネスはその人を変えるのではなく、自分を解放して本来の姿に戻すだけなのではないだろうか。(P289)

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マインドフルネスがいい、瞑想がいい、坐禅がいい、などと勧められると、それを続けるとどうなるか、などと効果を求めてしまいます。

脳科学的にも帯状回が太くなるであるとか、形態的、機能的な客観的変化は認められるようです。客観的評価も説得力のためには必要ですが、効果としてはやっているその人の主観的なところに落ち着くのではないでしょうか。自分で効果を自覚したいものです。なんとなく最近、カッとしなくなったかな、などと。

しかし主観的な変化なんてものは、主観的といっても自分ではあまり感じないものだと思います。さらにここに述べられているように、能力をアップするというよりは、雑念のホコリを掃除して、本来の自分を発揮できるようにするものだと思います。机の上や引き出しを整理して仕事しやすくするような感じでしょうか。

マインドフルネスで掃除する一方、本来の自分も鍛えておかなければならないのは必定であり、マインドフルネスですべてOKというわけではありません。

読書など、勉強しましょう。

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マインドフルネスは「今ここ」に集中することで雑念を排し、本来の自分とその能力を取り戻します。その方法論としては、瞑想をはじめ様々あり、多くの書籍で紹介されています。

しかし、今ここ今ここといっても、過去と未来というある程度の「時間の幅」、そして周囲の環境や人々(人間関係)を感じてこその「今ここ」ではないでしょうか。

私はいつも、「自分の立ち位置がないと周囲の状況をとらえられない」と言っていますが、逆もあると思います。つまり、「周囲の状況をある程度見ていないと、自分の立ち位置がここでいいのか分からない」ということです。

あまり過去を気にしたり、未来を思い悩んだりすることは不要ですが、視野狭窄のように「今ここ」だけに集中すると、周囲の状況が見えなくなり、誤った方向に向かいかねません。

周囲の環境、人間関係に目を配る意味でも、仏教であるとか、哲学や人間学的な思想も常備し、人間として正しい道で、自分の能力を生かしていければと思います。

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