心の教育

2020年3月6日

心の教育 井深大 サプライズBOOK

巷では「心の教育が大事」などと言われています。しかし、その方法論であるとか、なぜ大事なのかについてはあまりよく分からずに言っている気配も感じます。

過度な受験戦争や学歴社会の反省として、出てきた考えのようにも感じます。また、実社会に出てからは受験戦争の産物である大学卒業生が、社会人としてはかなり欠陥が多いこともあるようです。

そういった背景から、実社会のほうからも教育段階において人間性であるとか、道徳の教育を求めているということも、あるかもしれません。

今回ご紹介する本は、ソニーの創業者であり、教育とくに幼児教育の可能性を長年追求してきた井深大氏の著書です。

試験に受かるための知識偏重の教育から、社会人としてうまくやっていけるための人間性も含めた教育を考えるうえで、教育に携わる人はもちろん、子どもをもつ親や、これから親になる人にも、ぜひ読んでいただきたい一冊です。

(今回読んだものは、サプライズBOOKからの版です。他にも復刻版などとして出版があるようです)

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いまの日本の極端な知育偏重の教育が、けっして忘れられてはならないはずのもう二つの柱、体育と徳育を教育現場から一掃してしまっているのです。(P24)

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教育には3つあると言います。知育、体育、徳育です。それぞれ、生きていくために必要な知識、身体機能と健康、そして人間性を得るためのものです。

知識と健康だけでもヒトは生きていけます。しかし、ヒトという動物は「人間」とも呼ぶように「人」の「間」で生きていく生き物です。

そこでは人間性、つまり、人の間で良い関係を気づいていく性質が必要です。

しかし、近年は知育偏重の教育となっており、これは受験や学歴社会から影響されていると思います。一方で体育や徳育が低く見られているのでないでしょうか。

体育といえば、授業科目として「体育」があります。しかし、時間としては少なめですし、様々なスポーツ、保健に関する知識や技術の修得に重きが置かれている面があると思います。

場合によっては、徒競走で時間を計られたり、技術の習熟に関してテストされたりして、体育嫌いの子ども(私もそうでした!)を作っているかもしれません。

身体を動かすことによる気分爽快感や楽しみであるとか、ウォーキングや軽いランニングなど生涯にわたってやっていけそうなものを教えてもいいのではないかと思います。

徳育に関しては、これも「道徳」という授業科目があり、近年ではやや重みを増しているようにも見えます。

しかし、「道徳」というのは、授業を組んで“教育する“というものでもないような気がします。

日常の、たとえば挨拶であるとか、姿勢、掃除などの学校という集団生活の場での活動のなかで折にふれ学んだり、もしくは家庭でのしつけやお手伝いなどから、じんわりと学んだりしていくものではないでしょうか。

そして、そういった場で子どもの活動の様子や結果を、「道徳」を学ぶことにタイムリーにつなげてあげるのが、教師であり、親であると思います。子どもの行動に対して、良いのか思わしくないのか、自分はどう感じたかなどを伝えてあげて、フィードバックするわけです。

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子どもをカタにはめない教育は、“自由”ではなく“怠慢”

“しつけ”にせよ“人間づくり”にせよ、強制的に人間を決められたカタにはめようという暴挙なのではないか。そんなことばかりしていたのでは、日本にはたとえばピカソのような天才はついには生まれなくなってしまうのではないか、といった意見です。(P108)

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最近、自分で課題を考えて勉強していくといった探求型の教育が増えてきていると思います。

“ゆとり教育“というのは、今までの詰め込みがたの教育を反省し、考えられた教育でもあると思います。

そういった教育法にも利点はあり、子どもたちの自主性や問題を見つけ出す力、自分でなんとかする力を育むには、良いでしょう。

一方、著者はカタにはめた教育も重要であると述べます。とくに“しつけ”や“人間づくり”に重要であり、それには「臨界期」があると言います。そういった能力を身に付かせるのにいい時期があるわけです。

たとえば、満足感であれば生後3か月までの親の愛情が大切であるとか、しつけや人間性であれば、就学前から小学校くらいでしょうか。

そういった時期に、本人は理論的に理解できなくても、ある程度は「ダメなものはダメ」であることや(人が嫌がることをしてはいけない、など)、しつけ、人間性の教育が必要です。

また、知育としても、この時期は本人の希望や興味など考えず(言い方が悪いですが)に、文章の音読であったり、ひたすら計算問題を解くであったりをさせることも、後々の人生で生きてくるのではないかと思います。

昔の寺子屋での教育は、素読などをしていました。子どもたちはその時、意味は分からないでしょうが、その後の考え方や、思想のタネになったのではないかと思います。

それに、ある程度頭のなかに素材となり足場となる知識が入っていないと、自由な発想も生まれてこないのではないかと思います。

ある意味、子どもたちに「ゆとり」だとか「子どもの自由に」だとか言って、そういったカタにはめる教育を施さないのは、教師や親の怠慢でもあるというわけです。

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これからは、専門家の知識でなく、人間的な知恵が求められる

これからは、そんなに知識だけを詰め込んでいる必要はないのです。むしろ、目的に応じて、その知識を上手に使いこなす能力を持った人が、これからの時代には求められているわけです。(P123)

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“目的に応じて、その知識を上手に使いこなす能力”がまさに「知恵」のことです。「上手に」というのはどうのようにかというと、相手あるいは周囲全体のことを考え、より良いように使うわけです。

専門的な知識は電子辞書やAIに人間はかないません。しかし、知識を「知恵」として使えるのは人間だけです。

そのために、人間性を学ぶ「徳育」が重要なのです。

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物質中心の国から、心の国へ

忘れてならないのことは、真の国際感覚とは、その基盤となる日本人としての自覚の上に形成されるものであるということです。つまり“ナショナル”と“インターナショナル”という言葉はけっして対立するものではなく、真の“インターナショナル”は、“ナショナル”なものの見方、考え方が確立されてはじめて形成されるものなのです。(P139)

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ある程度周囲を見渡すことが必要な場合、自分の立ち位置が重要です。言い換えると、人は自分の立ち位置に立って周囲を見ています。

インターナショナルといっても、多くの外国の知識を身につけているだけでは、話を合わせることはできるでしょう。

しかし、他国の事情を知ろうとする以上に、自国のことも知っておく必要があります。なぜなら他国の人も、あなたの国のことを知ろうとしているからです。

そういったとき、外国事情に詳しくても、自国の歴史や文化などについての知識が乏しいと、立場がありません。

真の国際人とは、自分の国のことに詳しいうえで、他国の人ともうまくやっていける人ではないでしょうか。

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「関係者のあいだに、医療が非人間的なものになっているという懸念が大きくなっている。(中略)医学は人間性と技術の中間に立つものである。しかし最近では人間性がうとんじられ、その結果、人間無視の医学が出現している。医療サービスにたずさわるすべての関係者が人間的に仕事を遂行すること、それが国民健康の第一課題であると当委員会は確信する」(P146)

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「心の教育」は、なにも子どもに対してだけではなく、社会に生きる大人になっても、たえず考える必要があると思います。

学問は、分類の仕方は様々あると思いますが、大きく分けて科学、技術系の学問(自然科学、人文科学、社会科学、工学など。時務学といったりもします)と人間学(道徳や宗教、哲学など)に分けられると思います。

そういった中で、物理学や工学や経済学、歴史学などは科学・技術系の学問なのかもしれませんが、仕事の内容によって、人間を相手にするのであれば、人間学も大事です。

とくに医学は、まさに人間を相手にする学問ですので、様々な場面で人間学が必要となってきます。一方、手術や検査など技術が重要な場面もあります。

そういった中で、近年は医学における人間性の低下が問題になっています。我々も、どうしても患者さんの検査データの変化だとか、画像評価に目がいってしまいがちで、患者さんとお話をした雰囲気だとか、手を触った感触だとか、そういった検査データや画像に現れないものを、軽視しがちだと思います。患者さんを診る前に画像を見てしまうといったこともあります。

確かに検査データや画像は診断に有用です。しかし、患者さんの訴えを聞いたり、顔つきや顔色を見たり、手をとってみて感じる患者さんの体温感や皮膚の湿度、脈などの様子などの情報も注意する必要があります。

「ちょっといつもと違うな」という感じが、思わぬ病態の発見につながることがあります。

空振りであるとしても、そういった患者さんとの「ふれあい」が、医師と患者さんやその家族との壁を、少しずつ崩してくれるのではないでしょうか。

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生徒に感激を与えられる先生こそ、これからの教育の担い手

人柄を分かち与え、人生の感激を教えること。感銘を与え、人間的な影響によって子どもの“心”を育てること。ことあらためて人格教育の時間をもつのではなく、どんな小さな接触においても、子どもたちにりっぱな人格とはこういうことだと身をもって教えること、こうした“人徳”教育こそ、これからの時代の教師の使命であり、学校教育の真の目的ではないでしょうか。(P161)

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人間の活動に必要な要素の一つとして感情があります。人間は、ロボットのようにただ知識を駆使して事物を処理して生きていくわけではありません。

知識を、相手を思いやる気持ちなど人間性を加えて「知恵」として使うことで、相手も単なる「知識」の受理よりも、場合によっては感激を受けることもあるでしょう。

たとえば、誕生日プレゼントとして花を贈るにしても、単に花だけでなく、相手が好きな花を考えて贈るとか、メッセージカードを付けるなどでしょうか。

教育においても感情は重要です。ただし、怒るときはあまり感情的にならないほうが良いでしょう。

記憶においても、あるエピソードを体験した時に感情が伴ったほうが、記憶が保持されやすいということも分かっています。授業でも感動や感情の動きを伴う授業が、聞いている子どもにとっても記憶に残りやすいわけです。

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教育の場は学校だけではありません。たしかに学科教育は学校が主となって行うでしょうが、ここで述べられた「心の教育」や「徳育」は家庭での教育も重要な一旦を担っています。

いやむしろ、そういった教育までも学校に任せてしまおうというのは、それこそ親の怠慢であり、家庭での教育も子どもの総合的な教育に必要だと思います。

学校での道徳教育を増やしましょうという話も、学校に任せてしまおうという雰囲気があります。たしかに学校で体系的に教えることも大事です。しかし、学校だけに任せず、家でのしつけやお手伝いなどといった活動から、おのずと学んでくれるように、親としてもがんばりたいところです。

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