生きがいはどこから

2020年2月22日

仕事なんか生きがいにするな 泉谷閑示 幻冬舎新書

生きがいは何から得られましょうか。「仕事」は代表的な「生きがい」を得る手段かと思います。そのほかにも、愛すべき家族であるとか、楽しく語りあえる友人であるとか、様々でしょう。

しかし、現代は「仕事」に生きがいを求める人が多いと思います。ただ、その「仕事」も、産業革命後の大量生産の時代、自分の能力や工夫、裁量を発揮するというよりは、与えられた部分的な作業を行う「労働」となっています。

この「労働」にどんな「意味」があるのか、と考えてしまうこともあるでしょう。「意味」をいくら探しても見つからないなあと感じることも多いはずです。

それもそのはず、著者は「意味」についても「意義」との違いから明確に説明しており、「意味は自らの内面から生み出すもの」としています。

著者は精神科医であり、他にも『「普通がいい」という病』や『反教育論』、『あなたの人生が変わる対話術』など多くの著書があり、とくに人間を「頭」と「心=身体」と分けて考える手法が、非常に納得できます。

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本来は人間的な手応えを得られるはずの「仕事」というものが、いつの間にやら「労働」というものに吸収合併され、すっかり変質してしまったということ。そして、「労働」こそが価値を生むものであるという「労働価値説」が社会経済の基本的価値観となってしまったこと。さらに、古来は最も価値があることとされていた静かな「観照生活」の意味はすっかり忘れ去られて、単に怠惰で非生産的なものとしてした捉えられなくなってしまったこと。

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仕事には、さまざまな報酬があります。お金ももちろんですが、自分の技術・知識・能力の向上、人間関係などなど。それゆえ「仕事」は人間の形成において重要な役割を担っていると思います。

しかし、「仕事」がいつのまにか「労働」になってしまっていることを著者は指摘します。そして生活のための、手段となってしまっています。「労働」は、大量生産社会の一部として自分の労働力を提供し、全体としてはなんの役になっているのか、あまり分からない状態で業務をこなしていると思います。

これはいわゆる「雑用」も含まれると思います。「雑用」というのも、雑用なのかそうでないのかは、その作業をしている人の考え方によると思います。「とりあえずやらなきゃいけないからやるか」という考えと、「これをやることによって、皆が助かったり、効率がよくなったり・・・」と考えてやるとの違いかと思います。

「仕事」が分業化され「労働」になってしまったとしても、救いとしてはその作業に「意味」づけをできるかどうかというところでしょう。

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「意義」とは、われわれの「頭」の損得勘定に関係しているものなのですが、他方の「意味」とは、「心=身体」による感覚や感情の喜びによって捉えられるものである、そこには「味わう」というニュアンスが込められています。(P107)

「意味」はけっしてどこかで見つけてもらうことをじっと待っているような固定した性質のものではなく、「意味を求める」という自身の内面の働きそのものによって、初めて生み出されてくるものなのです。(P109)

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「意味」については、ここでしっかり説明いただいています。他の著書も拝見するに、著者は「頭」と「心=身体」という分け方で人間をとらえて考えることをされています。

作業に「意義」を求めてしまうと、報酬はどのくらいになるとか、どんな能力・資格が得られるだとか、損得勘定中心の考えになってしまいます。これはまさに「頭」で考え、感じることです。

一方、「意味」といったら、やりがいだとか、他人からの感謝など著者のいう「心=身体」にとって心地よいものだと思います。

そして、「意味」はだれからみても「意味があるもの」として存在するわけではなく、自分自身の価値観や好き嫌い、あるいは直感により生み出され、得られるものということです。

様々なことに、のめり込むまで熱中する人はいます。というより、すべての人はなんらかのことに興味を持ったり、趣味として活動したりしています。ときには他人からみると「どうしてそんなものに」と思うこともあります。○○オタクなどと言われる人もあります。

しかしそれは、その人なりに自分の内面から対象にたいして「意味」を生み出し、感じているのだと思います。

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「仕事探し」=「自分探し」の幻想を捨てよ(P113)

問題点は大きく二つあって、「真の自己」を外に求めてしまっていることと、それを「職業」という狭い範疇のものに求めてしまっているところにあるのです。(P118)

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「仕事」を通して自分を発見する、自分の隠れた才能を、一面を発見する、という考えは一理あるかとは思います。しかし、逆に自分に一番合う仕事がどこかにあるのではないか、自分を輝かせてくれる仕事にいつか出会うのではないか、という考えは幻想です。

これは医学部学生のぶつかる大きな分かれ道、診療科選びにも当てはまると思います。しかしこれも、手掛かりとすべきは「頭」よりも「心=身体」の求める、自分はその科に興味があるか、ちょっとワクワクするか、良さそうかといった要素だと思います。大変そうとか儲かりそうとか、楽そうという「頭」の求める要素(まあそれも大事でしょうが)ではなくて。

さらに、人生のタスクは仕事のみならず、交友、愛もありますよとアドラーも言っております。「自分探し」(なんとなく「探す」というより「作る」かと思います)の場は仕事以外にもあります。

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愛とは、相手(対象)が相手らしく幸せになることを喜ぶ気持ちである。

欲望とは、相手(対象)がこちらの思い通りになることを強要する気持ちである。(P131)

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これは、著者の『「普通がいい」という病』からの抜粋です。愛にも妻に対する愛や子供に対する愛、はたまた部下に対する師弟愛のような愛もあるかと思います。

大変耳が痛いです。

さて、自分はここで述べられているような「愛」を実行できているでしょうか。なんとなく後者の「欲望」も大なり小なり混ざっている気がします。

たとえば後輩への教育や指導も、もちろん相手の知識が増えて技術も向上することを喜びたいという面もあります。しかし一方で、自分を尊敬してもらって、自分の思い通りに付き合ってくれるようにしたいという気持ちもあるんじゃないでしょうか。

大変耳が痛いです。

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まず、「頭」の計画性や合理性を回避するためには、その対極にある「即興」という概念を積極的に用いてみることがとても有効な方法です。(P172)

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人生の分かれ道とまでは言わないまでも、我々は日々選択をしながら生きています。どこかに出かけるにしても、夕食は何を食べるにしても。そういうときに「頭」考えるのではなく、「心=身体」に聞いてみて、決めることが生きることを味わうという点で一つの工夫のようです。

これは、いわゆる「直感」にもつながると思います。「頭」は手持ちの記憶や情報で判断してくれるだけですが、「心=身体」が生み出す即興的な「直感」は、これまでの経験や今現在の感情、体調、あるいは潜在意識などから創り出されるものだと思います。

そして、この「心=身体」から生み出され、人間の生活や文化を何なる文字情報や記号のみでなく華やかに彩ってきたのが、「芸術」や「遊び」なのだと思います。

なかなか「頭」だけで計画的に生きていては、あまり面白くなさそうです。「頭」にたよって行うべきこともたくさんありますが、「心=身体」の生み出す「即興」、「直感」も重用したいものです。

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