トップナイフと人間の生き方

2020年1月10日

トップナイフ 林宏司 河出書房新社

今月からはじまるテレビドラマの原作である。

テレビドラマはもとより、医療系ドラマはほとんど見ない私であるが、職業柄興味をひかれたので読んでみた。

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 そして残りの人生を、保をすこやかに育てることに惜しみなく費やすのだ。黒岩は決意した

 俺は生きるのだ。(P148)

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「人間として」生きるとは

人間は「人」の「間」で生きていくものである。人の間にもいろいろあるが、そのなかで大事なのものはアドラーの思想で人生のタスクといわれる「仕事」、「交友」、そして「愛」なのだろう。

この黒岩という脳外科医は、「仕事」と「交友」(かなり偏った交友ではあるが)が人生のほとんどであり、「愛」については乏しかったと思う。

そこに、”自分の子供”が登場し、紆余曲折はあったが「愛」を伴った人生が前に見えてきたのだと思う。そのときにこそ、この「生きるのだ」と実感のこもった言葉が出たのだろう。

その後の黒岩は元の生活に戻ったようだが、このエピソードはしっかりと黒岩の心にクサビを打ち、(身の衰えとともにかもしれないが)「愛」のある生活を望むようになるのではないかと思う。最後にぽつりと落ちた”水滴”がそれを示している。

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「直感だ、これは」

 脳外科医の腕を決めるものは、努力と空間認識力、手の器用さ、経験、術例の多さ・・・と多岐に渡る。しかし、いちばん大切なのはセンスだ。どこに何があるか。どこをどれだけ攻めれば危険か。ナビゲーションシステムがいくら発達しても、到底人間の脳にはかなわない。そして、言語化できないもの、すなわちカンといわれるもの、そっちの方が言語化できるものより遥かに脳の広い部分を使っているということを脳外科医たちは知っている。(P200)

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「直感」の大事さ

理論的に理由を説明しないと話が通らないこの頃ではあるが、「直感」というものも大事にしたい。

ここにあるように、理論的な考えよりも「直感」のほうが、脳の広い部分を使っていると思う。それは、深く、ユングの思想でいうところの個人的無意識から普遍的無意識にもつながり、表面的な意識では到底考えつかない豊かなものを含んだうえの、「直感」なのだろう。

「暗黙知」というものも、こういった形の知なのだと思う。

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人は成長するに従って、社会と自分との関係を把握していく。社会に対して人は、いろいろな切り口でその実態を明らかにしようとしていく。

我々が相手にする患者、病気、心理といったもの、はては社会といった抽象的なものは、とっかかりとしての「切り口」をしっかり作らないと、とらえどころのないものにしかならないことが多い。

職業とは、社会(この世界)の様々な切り口に対して、様々な手段で切り取る集団である。

医者は病気という切り口に対して、医療という手段で世界を切り取る。

司法は訴訟という切り口に対して、法律という手段で世界を切り取る。

個人相手のこともあり、政治家のように大勢の人間や社会全体を相手にすることもあるが、なんらかの形でこの世界を良くしようと働いているのだ。

小説家は人間という切り口に対して、文章という手段で世界を切り取る。

この小説は脳外科医という職業で社会に一つの「切り口」をとっており、更にその中でも特徴的な症状を呈する神経疾患や、患者や同僚、あるいは社会に対する脳外科医の生き方を「切り口」としている。

話中に登場する各疾患の症状は、様々な人間関係のほころびを表在させ、人間が人間として存在するうえでの重要な要素である「家族」、「生きるということ」、「才能」、そして「心」といった課題に対して、一つの示唆を与えてくれる。そして、ややもすると極端に描かれている個性的な脳外科医の生き方は、ある時は疾患と照らし合わせて、人間とはなにかの一端を教えてくれている。

医療系のテレビドラマや小説がはやるのは、そこに、病気や医師という命に直結した「切り口」を持ち込んで、最終的には切れ味鋭い「人間の生き方」についての提案を、提示することができるからだと思う。

小説は、多くの場合、単にひまつぶしの面白い話を提供しているだけではない。そこに社会の問題や人間の生き方など「切り口」をしっかり持たないとよく分からないものが、浮き彫りにできるところが、小説の面白いところだと思う。

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