「やりがいのある仕事」という幻想 森博嗣 朝日新聞出版
仕事の「やりがい」はどこから生まれるのでしょうか。「やりがい」のある仕事の特徴は、少し考えただけでもいくつか出てくると思います。やってて楽しい仕事、自分にしかできない仕事、十分な準備をして思った通りに進んでいる仕事、感謝される仕事、あるいはお金の儲かる仕事などでしょうか。
しかし、「やりがい」は得ようとして得られるものではなく、「やりがい」なんかないと思っていた仕事から、ふいに生まれることもあります。そもそも「やりがい」を求めて仕事をする、あるいは仕事に「やりがい」を見出すという考え方そのものが、間違っているのかもしれません。「やりがい」は、ふとしたときに自然に生まれるのかもしれません。
今回ご紹介する本は、「やりがい」を求めて仕事を続け、人生の大半が仕事で占められ、けれども「やりがい」は得られず悩んでいるような人にお勧めです。仕事に「やりがい」を求めず、自分の思うように生きてみてはというメッセージが込められています。
著者の森博嗣は某国立大学の工学部助教授の経歴をもち、数多くの小説や評論、エッセイを世に送る文筆家です。大学教員をしながらの文筆活動というのは、私も憧れるところであります。
以下、いくつかの抜き書きと考えたことを書いておきます。
辞めてしまう人は、もともとは長く勤めるつもりで就職先を選んでいる。長くそこで働きたいと思っているからこそ、ちょっとしたギャップを見過ごせないのだ。
人生の選択というのは、どちらが正しい、どちらが間違いという解答はない。同じことを同条件で繰り返すことができないからだ。ああしておけば良かったとか、あれがいけなかったという反省をしても、それらはこれからの時間で別の形で取り返すしかない。
長く働こうと思うから辞める?
最近は新入社員として入社しても、短い期間でやめて次の就職先を探す人が多いようです。入社してしばらくすると会社の雰囲気や仕事の流れも分かってきて、自分に合う合わないという気持ちが出てくるためと思います。長く働ける会社にいたいから、今の会社では長く働くことが難しそうだから、逆説的ですがやめてしまうのでしょう。入社のときも、そうならないように、長く働ける会社を厳選して試験をうけ、就職したのだと思います。
著者がいうように、人生の選択というのは、どちらが正解でどちらが間違いというのはないと思います。例えばテレビゲームでは、セーブポイントというものがあり、そこで一時セーブしておいて、こっちの道を行ってみたらダメだったからリセットして別の道を選び直すとか、こっちにクラスチェンジしたら使えなかったからリセットして別のにするとかいったことが可能です。
しかし、人生の選択にはセーブポイントはないし、なにを選んでもハズレということはないと思います。まず第一に、別な道を行った場合との比較ができません。人生は選んだ道のみが続いていくのです。選んだ道が正解なんです。
最近の学生も、進路を選ぶときに迷っているようですが、私のいつも言うありがたくない助言が上記のものです。もう少し実利的な助言(給料とか勤務時間とか待遇とかQOLとか)でうまく乗せてあげられるといいんですが。
ついつい、学校のように、すべて教科書があって、先生が教えてくれるものだ、と勘違いしてしまうのが、この頃の若者の傾向である。この点は意識を入れ替えた方が良い。学校で習ったことは、仕事を観察し、分析し、やり方を知るための基本的な道具だと思う。つまり、金槌とは何か、ノコギリとは何かを学校では「教えて」くれた。あとは、現場で、先輩の大工がどうやって家を造るのかを観察するしかない、というのが今の状況だ。建てる家によって、仕事の内容は違うから、誰も言葉で具体的に押し入ることなどできないし、そんな余裕もないだろう。でも、きけば答えてくれるはずだ。
大学では道具を手に入れただけ
新入社員や医者一年目の研修医などは、これから進む仕事には、これまで身につけた知識で太刀打ちしていく課題があり、それにともない「やりがい」もポロポロついてくるのだ、と思うかもしれません。
しかし、これまで学校や大学で身につけてきた知識は著者のいうように基本的な道具です。その道具をいかに使って、仕事をしていくかが難しい。道具の使い方も難しいし、どの場面で使えばよいのかも難しい。
だいたい、我々が実社会に入って相手にするお客様、病気、患者さん、あるいは社会といったものは、教科書とは異なり非典型のかたまりで、どこを掴みどころとしてとっかかっていったらいいかが、まず難しいところです。どんなことを聞くとか、どんな検査をしてみるとか、どんな調査をしてみるとか。
そのとっかかりをつけるコツをつかむためには、やはり先輩のやっていることを見たり、自分でもいろいろ考えてうまくいったりいかなかったりした経験が必要なのだと思います。
仕事に「やりがい」を感じるのは、そういったとっかかりがうまくはまって、相手をいい状態にすることができたとき、という点もあるかもしれません。
そもそも、意見には温かいも冷たいもない。温度を感じ取ろうとするのが間違っている。言葉で飾って、親しみを込めて話したところで、内容のない意見であれば、結局はなにも問題を改善しない。
言い方ではなく、言っている内容、つまりメディアではなくコンテンツをしっかりと受け止めることが優先されるべきだ。それが仕事の本質ではないか。
言葉の温度
仕事をしていると、よく怒られます。怒られてへこんでしまい、パフォーマンスに影響を与えてしまう人もいるでしょう。
しかし、他人の言葉はそのコンテンツ(内容)はしっかり受け止めて、言葉の言い方や温度(メディア)はあまり気に留めなくていいと思います。
つまり、ものすごく怒られても、その怒りをご丁寧につけてまで伝えてくださりたかったメッセージ(コンテンツ)だけはありがたく受け取り、怒りのほうは右の耳から左の耳あたりに通過させる感じでいいと思います。
仕事をしていて、怒られて、いちいちへこんでいても体調やパフォーマンスに悪影響を与えるだけです。もちろん、せっかく怒ってくださったのだから(怒るのはつかれます)、それなりにしょげている姿勢をみせるのは礼儀というものですが。
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ちょっとしたつらい・楽しいといったその時その時の気持ちで自分が進んでいる道を チョコチョコ変えず、大きな流れのなかで、ゆっくり変わっていくようにするのがいいと思います。長く続けることでも「やりがい」は感じられます。怒られてもそのメッセージだけはありがたく受け取り、怒りは流しましょう。
また、知識は道具であり、実社会に出てから使いかたを覚える面が大きいと思います。道具を使えるようになっていくのも、仕事の「やりがい」かと思います。