ひとりの時間の価値

2019年11月11日

ひきこもれ 吉本隆明 大和書房

とかく最近はディスカッションだとか対話だとか、集団だとか他のひととのつながりでなにかを生み出すことが重要視されている気がします。もちろんそういったことも必要ですが、ひとりで過ごす時間も生産性のうえでは必要かと思います。

ひとりでなにか作業や仕事をすることももちろんですが、そういう実質的なこと以外にも、たとえば瞑想やマインドフルネスに入ってみたり、いろいろ考え事をすることも、まわりまわって日常の生活や仕事に効いてくるのではないかと思います。

吉本隆明は20世紀を代表する思想家で、作家の吉本ばななさんのお父さんでもあります。代表的な著作には「共同幻想論」や「言語にとって美とはなにか」などがあり、私もまだ読んでいないものが多いのですが、じっくり読んでいきたい思想家の一人です。

この本は文庫にもなっており、吉本隆明の文章としては入りやすいものかと思います。コミュニケーション至上主義のような今日のなかで、ひとりの時間を作ることの大切さを再確認できる本だと思います。コミュニケーションに疲れた方、表向きはある程度仕方ないですが、この本も読んでみてください。

以下、いくつかの抜き書きと考えたことを書いておきます。

ぼくには子どもが二人いますが、子育ての時に気をつけていたのは、ほとんどひとつだけと言っていい。それは「子どもの時間を分断しないようにする」ということです。くだらない用事や何かを言いつけて子どもの時間をこま切れにすることだけはやるまいと思っていました。(P25)

一人で過ごす時間が「価値」を生み出す

ある程度のまとまった「ひとり」の時間は、われわれ大人の生活においても、必要と思いますが、著者は子どもにとっても必要と述べています。たしかに、自分の子供をみていても、ブロック遊びなど「なんだか熱中しているなあ」と感じることがあり、そういうときは邪魔をしないほうがいいのかなと感じます。

テレビゲームなどもある程度の時間がないと話は進まないし、楽しめません(話は違いますが昔の親はRPG中でも約束のゲーム時間が過ぎると電源プラグを平気で抜いたりしました。まだセーブしてないのにー)。

勉強も集中したある程度の時間が大事だと思いますが、遊びについても同様だと思います。

教室にあった「偽の厳粛さ」に、子どもたちはその後の人生のあらゆるところで遭遇することになります。ぼくなどは、それが日本の社会の諸悪の根源なのではないかと思うことがあります。

偽の厳粛さ

著者は、学校の教室でみられる「偽の厳粛さ」が日本の社会の諸悪の根源なのではないかと喝破します。

たしかに、感じます。学校では児童生徒は教師に従うべき、教師は児童生徒を指導すべき、職場では上司は下を指導すべき、後輩は先輩を見習うべき、などといった形式が当たり前のように感じられる雰囲気に維持されています。へんな努力によって。

もちろん基本的な姿勢としてはそういったことは必要です。しかし、もうちょっとざっくばらんに話し合ったり、自分の本音を言ったりすることができる雰囲気もほしいと感じます。

「偽の厳粛さ」に一応の真面目さで対応できていればいいのですが、耐えられなくなるひとが不登校や会社が合わないといったことにつながるのかと思います。

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「ひきこもり」というと、ネガティブなイメージしかありませんが、呼び方の問題であり、人生のうちで一時期そういう時期があってもいいし、一日のうちでも少しそういう時間をとって瞑想なり考え事なりするのもいいと思います。少し世間と距離をとってみることも、ときどき必要と思います。

最近、新装版が発刊されました。コロナ禍で家にいることが多い中、ますます”ひきこもる”ことの重要さが感じられます。(2020年9月24日、追記)

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