人間の土地 Aサン=テグジュペリ 堀口大學 訳 新潮文庫
『星の王子さま』を初めて読んだのは、高校を卒業して大学受験浪人をしていたときでした。
当時は今のような読書習慣もなく、アガサ・クリスティーの推理小説などをときどき読んでいたくらいでした。
英語の勉強に活用しようと思って英語版の『星の王子さま』を読みましたが、もちろん私の英語読解力が無いことも手伝って、いまいちピンとこない印象でした。
その後、最近になって無理せず日本語版を読み、さらに漫画版も読んでみると、内容や物語の流れがスッと入ってきました。
さらに、わずかではありますが、著者が作品に込めたメッセージも自分なりに受け取ることができたのではないかと思っています。
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今回ご紹介する本は名作とは聞いていたものの読み至らずにいた作品でした。ふとSNSでお薦めいただいたこともあり、手に取ってみました。
著者が職業としていた郵便飛行での体験が、著者の才能を発揮してありありと述べられ、かつ的を射た翻訳により内容と物語がスーッと読者に入って来ます。
読者にはまるで彼の傍らで一緒に飛行し、一緒に墜落し、一緒に苦しみ、一緒に喜んだような気分にさせてくれます。
現実においてそういった様々な体験をしたときにどのようなことを感じるかは、人それぞれにでしょう。
著者自身は作中に述べられたようなことを感じたのでしょうが、同じような経験をしたときに読者が、あるいは私がどこまで何を感じるかは、分からないですね。
ただ、他の多くの人間の作品を読んでも、緊張状態や極限状態に陥ったとき、死や病に瀕したときに考えること同じである気がします。
そういった状況での思考は人間とは何であるか、人間の生き方とはどのようなものか、というところに行きつくと感じます。
この作品も、著者の体験を通して読者になかなか味わうことができない経験と思考をもたらしてくれます。
この本を読んで、人間とはどのような生き物なのか、人間の生き方とはどのようなものかを、考えてみてもいいのではないでしょうか。そんな気持ちにさせてくれる一冊です。
いつものように、キラリと光り心に残った部分を抜粋して、考えたことを付記していきたいと思います。
ある一つの職業の偉大さは、もしかすると、まず第一に、それが人と人を親和させる点にあるかもしれない。真の贅沢というものは、ただ一つしかない、それは人間関係の贅沢だ。(P45)
たとえ、どんなにそれが小さかろうと、ぼくらが、自分たちの役割を認識したとき、はじめてぼくらは、幸福になりうる、そのときはじめて、ぼくらは平和に生き、平和に死ぬことが出来る、なぜかというに、生命に意味を与えるものは、また死にも意味を与えるはずだから。(P252)
人は、他者との間に関わりを持つことで人間として生きていきます。親子や兄弟のような基本的な関係をはじめ、学校での関わり、職場での関わりなど様々な人間関係があります。
親子関係や兄弟関係などは決まっているものですが、職業となるとある程度自由があり、自分で選択することもできます。
また、職業に限らず自分がどのような能力を持つようになるかも、勉強の方向や興味の発効によって個性豊かに身に付けることが可能です。
能力を磨いたり、職業を身に付けたりすることは、特徴に乏しく平均的であった動物としてのヒトが、人間として人間社会のなかで役立つようになる一手だと思います。
そういった能力や職業を身に付けることで、社会のなかで何らかの役割を果たし、社会を動かす一員となることができます。
人間社会でどのようなパズルピースになるかが、自分がどのような役割、職業をするかということにあたると思います。
パズルピース、あるいは“歯車”といってもいいかもしれません。パズルピースや歯車としての自分を鍛え、凹凸を特徴づけ、歯車の歯を磨き上げることによって
ときには多少の“合わなさ”をものともしない凹凸の“しなやかさ”や、歯車どうしを円滑に連結し摩擦を抑える“潤滑油”のような要素も必要でしょう。
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人は幸福を求めます。贅沢は幸福感を感じるための方法の一つに過ぎませんが、個人的な満足にとどまらず他者へも及ぼす贅沢は他者への貢献感を感じさせます。
アドラーの言うように貢献感は幸福の大きな要素です。人は人間関係の贅沢を得ることにより、幸福感を得ることができます。
真の贅沢とは、自分だけが贅沢して満足している状態ではなく、他者にも贅沢させてあげることができる、つまり他者に貢献することができることです。つまり真の贅沢とは幸福に他なりません。
職業とは、様々な知識や技術を通して自分が他者に貢献することだと思います。人は職業を発揮することにより、他者に多少の贅沢を提供します。
職業はパズルピースや歯車のように人と人とを親和させる可能性を生み出します。各人が能力や職業を発揮することで人間関係の贅沢、すなわち幸福がもたらされると思います。
ぼくらは内に閉ざされた一つの文化を形造っていた。そこでは歩行に一種特別の興味があった。そこでは事物に、よそのどこにも許されない意義があった。やがて、ぼくらが大人になって、別な法律に従って生活するようになったとき、少年時代の陰に満ちた、あの魔法の庭園、あの寒冷の庭園、あの炎熱の庭園の、何がはたして残っているだろうか、・・・
(P152)
外からの情報が入ってこないことにより維持され確保されている世界というものがあると思います。
たとえば、魔法の国である東京ディズニーランドは、ビルや橋梁など園外の建物が視界に入らないように工夫することにより、その普段とは異なる魔法の世界を維持しているそうです。
また、現実や詳細を知らないからこそ、想像力が働き壮大な世界観を生み出すこともあります。
子供のころの“秘密基地”遊びなんかがそうかもしれません。人目につかないところを秘密基地とすることもあれば、人目につく場所の一角が秘密基地になることもあります。
自分の子供の頃を想い起しても、今になってはそんなところ人からまる見えだろう、秘密基地じゃないよと感じるような場所が、秘密基地になっていました。
近くの公園に大きな階段があり、その脇の石垣の上に登ることができるところがありました。樹木も生えており、木々の間に入っていける空間もありました。階段にそって下り坂になっている土手であり、気をつけないと転げ落ちそうな場所です。
それでも子供のころの私たちは、木々で囲まれたその空間を“秘密基地”として集合し、伝え合い、遊び場にしていました。
他の人には、とくに大人にとっては何でもない場所。そんなところが、子供の見かたでは秘密基地になるのです。ある意味、基地に見えること自体が“秘密”だったのかもしれません。
多くを知ることによって世界はつまらなくなるのかもしれません。一方で、知り進めていても、初心の興味や不思議感、“センスオブワンダー”は失わないようにしたいものです。
太陽は地球を周(まわ)っていなくて地球が太陽を周っているのだ、と知ってしまっても、地球からみたら太陽が周っているよな、と時々ひねくれたり。
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ある土地の情報は車でザッと周れば把握することができます。なんならグーグルマップかなんかで地図を見たり、その場に立ったように景色を見たりすることもできます。
しかし、手段が“めんどくさく”なるほど、得られる情報は多くなります。たとえば車に乗るのと歩行との情報量はかなり違います。
情報の量が違うのみならず質も違います。傾斜や舗装の状況、道のまっすぐか曲がっているかなどから、空気感や匂い、太陽の光や夜空の明るさなど。
新たな土地に移動したとき、その土地を知るにはまず歩いてみることがいいと思います。私も最近歩くようにしていますが、上に述べたようなことが色々感じられます。
この本の著者サンテグジュペリも初期の飛行機乗りであり、むき出しのコクピットで空気や風、湿気、スピードや加速を感じていたでしょう。
そういった感覚、あるいは高山の寒冷や砂漠の灼熱などの描写が、読者に臨場感を与えてくれていると思います。
著者は五感に直接訴える感覚や喜怒哀楽といった感情に満ちた郵便飛行の職業生活を通して、人間とは何か、人間の生き方とはどのようなものかという問題について、一つのメッセージを読者に与えてくれています。
そして、現代社会といういわば“砂漠”に迷う我々に救援の手を差し伸べてくれる、そんな本であると感じました。