この気持ちもいつか忘れる 住野よる 新潮文庫
子供のころは何でも特別だったと思います。見るもの聞くもの新しく、好奇心旺盛に世の中を見ているのではないでしょうか。
また、同じものであっても、繰り返しでも面白いこともあります。子供に絵本の読み聞かせをしていると、そう感じます。
成長して、勉強して、経験を積んでいくと、ある程度の時期から「世の中こんなもんだ」という“分かった感”を身につけてくるような気がします。
もちろん、まだまだ知らないことが世の中にはあふれていますが、すべて自分が関わるわけでもありません。様々な学問や職業、社会の仕組みなど。
自分はこういう人間だ、というアイデンティティのようなものも固まってくると、それ以上のことはしないように、その状態から変わらないようにという気持ちもあるかもしれません。
その反面、そういった“自分”を変える機会があるのも、若い時期です。人との出会い、本との出会い、様々な出来事。それらは自分が保ち続けていたアイデンティティを変える可能性があります。
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特別なことがない日々の生活を“つまらない”と感じていた主人公。誰でも、生きていて、仕事をしていて何もかもが“つまらない”と感じることもあるかと思います。
さて先日、「“つまらない”の反対は何?」と息子に聞かれました。「えー、“面白い”かな」などと適当に答えておきました。すると息子は「えー、“つまる”じゃないの」と。
そんなわけがあるかなあ。“つまる”は管が詰まったり、打つ手に詰まったりすることだろう、と考えていました。
でも調べてみると意外でした。“つまる”は、「納得できる状況に落ち着く」という意味もあるようで、その否定としての“つまらない”という語用もあるようです。
主人公のような高校生の自分は、世の中についてなにぶん未知なことも多く(かく言う私もまだまだそうですが)、その影響もあってか納得できないことが多いと思います。
“つまらない”と感じることは、そのせいもあるかもしれません。
一方では、分かったふりをして「世の中こんなもんだ」と斜に構えずに、出来事を純粋に見て行こうという姿勢のなせることかもしれません。
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出張先でふと見かけたサイン入りの文庫本。時間も忘れて、SNSも忘れて、仕事の準備も忘れて過ごさせてくれた一冊でした。
(文庫版を読了した後、CDが付属した単行本も買ってしまいました。音楽と小説の繋がりという初体験で、頭に静かな”突風”が吹き始めているのを感じます。)
俺は、人生には突風が吹くものだと思ってる。他の言葉に置き換えてもいい。ピークとか、最高の思い出とか。人生はその突風を味わい、過ぎ去った後は空っぽになり、その味を思い出しながら余生を過ごすだけのものだ。(文庫P425、単行本P311)
人生にはいつも風が吹いています。いつもの風は目立たないし感じにくいながらも、空気を循環し、老廃物を薄め、栄養を行きわたらせてくれます。風によって起こる波も同様です。常に波があることにより、水はかき混ぜられ均一化されます。
そういった状況を一気に進めてくれる、あるいは変えてくれるのが突風や大波だと思います。いつもの風がときどき強い風となり、突風となります。いつもの波がときどき強い波となりピークとなります。
いつもより強い風や波は、いつもとは異なる働きをします。これまで無かったものをもたらしてくれたり、強固に沈着していたものを洗い流してくれたり。あるいは構築されていたものを破壊するかもしれません。
大きな風を待たなくても、自分自身が走ることによって、動くことによって空気の流れが風と感じられることもあります。風を感じるために走る、行動を起こす、突き進んでみる、という生き方もあるでしょう。
仕事に奔走すること、趣味のランニングですら、強い風を求める心の表れなのかもしれません。
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では、突風すなわち大きな出来事にすがる、重きを置く生き方はどうなのか。このあたり、アドラーの思想にもつながると感じました。
アドラーは、人が存在することだけでも価値があるという「存在の価値」という考え方を強調しています。
人間の価値というと私は○○ができる、お金をかせぐことができるといった「行為の価値」が注目されがちです。
行為の価値だけで人間を判断すると、あの人は自分に何をしてくれるのか、自分は家族に何をしてあげられるか、といった考えしか思い浮かびません。
そう考えてしまうと、病気で寝たきりになったときや、急に職を解かれたときなどにその人の価値は無いということになってしまいます。
そうではなく、人間は存在しているだけで関係する他人の心の支えになり、なにかしら社会の役に立っているという考え方が「存在の価値」という考え方です。
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自分の「存在の価値」を底上げしましょうというわけではありませんが、自己受容、自己肯定して「つまらない日常」の価値をサビ落としできればと思います。
常にビッグイベント連続というものでもありません。人生は。でも時々、あるいは一生に一度は突風が吹くかもしれないのであれば、その突風で得たものを大切にしつつ、日々の微風の存在も認めて感じながら生きていければと思いました。
俺が心の中に思い浮かべることが出来るのは、全てただの事実に過ぎなかった。
あの時の想いの強さを、重さを、激しさを。
心の中で描けない。(文庫P462、単行本P337)
感情と記憶は密接に結びついている、と言われます。たしかに、強い感情を伴った記憶はいつまでも残ります。
合唱コンクールで素晴らしい演奏をすることができ、とても嬉しかったこと。ずっと隠していたことがバレて、とても後ろめたい気持ちが強かったこと、などなど。
ただ、そうやって感情の動きを記述的に「とても嬉しかった」、「後ろめたかった」と述べることはできますが、そのときの感情の動きを実感することは、今はできません。
心の中で、光景を描くことはできますが、感情を描くことができないのです。
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感情は記憶と密接に結びついています。これは脳の構造と機能にも深く関わっているでしょう。感情に関わる扁桃体、記憶に関わる海馬。これらは近接して大脳辺縁系に属します。
扁桃体は、何か出来事に遭遇したときに、それが自分にとって好ましいことなのか悪いことなのかを瞬時に判断します。そして感情は、瞬間的に快・不快を判断する機能です。
もともとは生存のために重要な機能なのでしょう。たとえば動物と遭遇したときに、とっさに呼び起こされる感情によって、自分にとって有害なのか無害なのかの判断をします。
有害であれば不快な感情(緊張、不安、恐怖など)を引き起こされ、心身ともに逃走や闘争の準備がなされます。
逆に、森で美味しそうな果実を見つけた時や、よく見知っている人に会ったときなどは、快の感情(喜びや楽しさ)を引き起こします。
何か出来事が起きた時に、それが強い感情を伴うものであれば、生存にとって重大なことです。そのため、再度起こったときのために強い記憶として残しておくのでしょうか。
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ここでふと思ったのですが、感情は記憶と密接に結びついている一方で、記憶からまっ先に消えてしまうものもまた、感情かもしれません。
思えば感情は、とっさの判断に重要な働きをしています。だから、感情の変化を感じるのは一瞬でいいのです。出来事が起きたその一瞬だけ働けば。
不快な感情についてはそれでいいと思います。いつまでも不安や恐怖を感じて生活することは、心身の不調につながります。
快の感情は逆に、いつまでもあっても良いかもしれません。いつまでも続いてほしいなあとも思います。ただ、どうでしょう。それもまた人間の生き方ではないような気もします。必ず不快なことはありますし。
そして、快い感情にしても続いていると次第に閾値が上がるでしょう。過度な熱中や嗜好品、薬物への依存は、快の感情が続くことによる閾値の上昇も関わっていると思われます。
まあ、快なことはそれほど多くはないのですが、困ったことに不快なことは多いのが現代社会だと思います。仕事や生活、人間関係のいわゆる「ストレス」が一定水準で続きます。
ときどきは快の感情を体験したり、マインドフルネスなどで感情を整理したりすることが大切ですね。
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それはともかく、過去の感情に囚われ、おそらくそういう“感情があった”という事実の記憶を手放さないでいると、なかなか同じような出来事に対する感情の上書きが難しくなるでしょう。
そういう状態では、感情の起伏なく、たとえ感情が起きたとしても意図的、定型的に起きたものという極めて客観的・冷静・非感情的な捉え方しかできなくなるのかもしれません。
それこそ、初めて来た時みたいな感動を今も爆発させられるかって言ったら無理だと思うけど、でも、色々知ったから新しく感動出来ることも、たくさんあるって思う(文庫P488、単行本P356)
昔、この曲を聴いたときは涙が自然に出てきたのに、今は聴いてもそうでもないなー、と思うことがあります。
それは、歳をとって感情が鈍化したのでしょうか。そうではないと思います。初めて聴いたときの感動は自分の生き方の道をたしかに舗装してくれていて、その上を今現在も歩いているんだと思います。
その感動があったからこそ、今の感情の動きやモノの見かた、考えかたができていると感じます。感動は一瞬かもしれませんが、確実にその痕跡を残してくれているのです。
そういう感動を色々と経験したからこそ、そういう経験がなければ見過ごしていた感動にも気付いてきたかもしれません。
感動は一瞬のことでも、その経験は自分の感動の感度に影響を与えていると思います。
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「感情の記憶」について、深く考えさせてくれた本でした。
また、文章の書き方としても、主人公の内側の想い(「」以外の部分)と外側に口外した言葉(「」内のセリフ)の関係性が面白いと感じます。
言葉は、頭の中を代表して、かつ多くを捨て去らざるを得ず口外されます。こういうことを思っているけどこう言うしかない。こういうことを考えているけど、それしかいえない。
そこには単なる言語中枢の働きのみならず、頭の中での感情や記憶、語彙のせめぎあいを感じとることができました。
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幸せを見つけたとき、握った幸せを損ねる他人に見つからないように、これ以上の幸せが見つからないように、と考えてしまうこともあります。
でも、感情を抱いた事実は大切に記憶しつつも、感情を日々磨いて輝かせましょう。そして、どんな状況にも幸福を見出し、幸せでいられるようにと願います。