教養としての茶道 竹田理絵 自由国民社
祖母は教授でした。といっても、そのへんの大学あたりで偉そうにしている“教授”ではなくて、茶道の教授です。茶道では、流派によっても異なるようですが、教授という資格みたいなものがあるようです。
祖母の家は離れたところにあり、お盆や正月などに連れていってもらいました。どこかでも書きましたが撮っておいてもらったビデオを視るのも楽しみでしたし、ときどき「お茶」を点ててくれるのも、子どもながらに楽しみでした。
とはいっても、当時はお抹茶の美味しさも分からず(今も分かったつもりではありませんが)、一緒に出されるきれいなお菓子のほうが目当てでした。
ただ、お茶を点てる茶筅をはじめ、お茶碗や袱紗などの扱い方、正座していただき、お茶碗を回すなどの作法には、日常とはちょっと違った空間と雰囲気を感じたものでした。
今はお茶といえばペットボトルか、せいぜい急須で煎茶をいただくくらいで、いわゆるお茶を点てることはありません。でも、その時の経験は自分に、ちょっとした日本文化の芯のように残っていると思います。
その後も、ときどきテレビで茶道の内容があると、家族に不思議がられながらも興味深く見入っていました。
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今回ご紹介する本は、発売当初から書店で見かけておりましたが、なかなか手が伸びませんでした。理由は二つ考えられます。
一つは、上記のような経験があるので、だいたい茶道については「そんなもんだろう」と予想がつく(と思っていた)こと。
もう一つは、ワインや日本酒、ウイスキー、落語、はたまた育児などなどに関する似たような名前の本が多くあることです。
そういった場面で大切にされる礼儀作法、知識や知恵はビジネスに役立つということはよーく分かっているし、自分の好きなことや日常的なことからビジネススキルを学ぶという考えは、そりゃいいですよね、という気持ちがあったと思います。
しかし、礼儀や謙虚さは完成ということがなく無限に大切だと思いますし、日本文化も自分のアイデンティティとしても理解しておきたいと思っています。
そして、上記のような、つまり自分の原体験の一つともいえる経験があったことからも、やはりこれは読んでおかなきゃと思い、手にしたのでした。
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体験は反復やその他の体験、知識や知恵と結びつくことによって経験となり、その後の人生に役立ってきます。
私の幼少時の体験は体験でした、その体験は、この本を読むことによって経験へと昇華しました。やはり茶道をはじめとする日本文化は良いという再認識とともに、しっかりした自分の軸になってくれた気がします。
仕事や生活のことで、頭や心の中がいっぱいになることもあるかと思います。そのような時は、茶道や禅の精神である、「雑念を排除して、ただひたすら目の前のことに専念する。シンプルに生きる」を実践してみてください。(P81)
これはまさにマインドフルネスのことです。ただひたすら、呼吸など一つのことに集中し、次々に浮かんでくる雑念をその都度排除する。
瞑想とは言っても、マインドフルネスは座って行うだけではなく様々な行動そのものが瞑想となります。歩行や食事でさえも。
お茶を点てることは、一連の動作の今行っている一つ一つの手順に集中して、雑念を排しながらただおいしいお茶でお客さんを楽しませることに集中することです。
『禅と日本文化』にも著されるように、多くの日本文化はその多くを禅に根差しています。つまり瞑想と“我唯足知”という言葉にも表れる質素倹約に重きをおく思想です。
“わびさび”とも称される茶室の佇まいは、禅堂にも通じるものがあります。茶道は、お茶を点てるという目の前の行動にただひたすら集中する、禅に等しい行動です。
そういえば日本文化と言えば、漫画やアニメだって同様だと思いますよ。
あの膨大かつ丁寧な仕事は、ものすごい集中力と、その瞑想効果によって得られる広大な無意識との連絡によって生み出されている部分もあるに違いありません。
たとえ毎日顔を合わせる家族や友人、仕事仲間であっても、その日その時の出会いは一生に一度だけで、二度と同じ日や機会が戻ってくることがありません、という意味です。(P123)
これが「一期一会」の意味です。たまたま会った偶然を大切にしようという意味もあるでしょうが、日々会っている人も大切にしましょうという要素もあるのです。
うちではほぼ毎朝、出勤するときに長男が玄関まで送ってくれます。玄関でタッチして別れたあと彼はすぐに二階に駆け上り、二階の窓から手を振ってくれます。何年間もそんな感じです。
昔は二階の窓から顔を出すのがやっとでしたが、今は余裕で上半身が見えます。ときの流れるのは早いものです。子ども時代にはもっとゆっくり流れていた気がします。
子どもの成長も早いものだと感じます。総じて年をとると自分の時間の流れも速くなりますが、見た相手の変化も早く感じるものですね。相手にとっては迷惑かもしれませんが。
さて、人生で自分の子どもと一緒に過ごす時間は小学校までで半分を占めているそうです。あとは部活やら独り立ちやらあまり一緒に過ごさなくなることが多いのですね。
当直や出張で一晩やそこら会わなかっただけでも子供の成長を錯覚します。そうでなくても、子どもも子どもで日々変化していますので、自分と相手が会った瞬間は一生に一度の瞬間です。
滅多に会えない人と会うことについて「一期一会」の気持ちが大切ですが、日々会っている人に対しても、自分も多分変化続けているけど、相手もがんばって変わり続けているのだから、やはり「一期一会」だな、と自覚して、大切にしていきましょう。
もしかして日々のちょっとした変化にも気付くことができる、楽しい人生になるかもしれません。
茶道を初めて体験されたお客様が、「茶道ってお抹茶を点てて飲むだけかと思っていましたが、この小さなお茶室の中に日本の伝統文化が全て入っているのですね」と驚かれたことがありました。(P154)
弓道は弓で矢を放つだけ、剣道は竹刀で相手を打つだけ、華道は花を器に並べるだけ、ではありませんよね。
弓道は弓で矢を放つ動作を通じて、その動作を修行して的に矢を当てるためにはどうしたらいいか考えて、そのために動作から精神、精神から動作を鍛え直して、などと往生するスポーツです。
同様に剣道はただ相手を竹刀で叩いて打ち負かすことを目的とするだけではなく、もちろん剣術の上達を目指しますが、剣を持つ心、相手を想う心など、精神性を重視するでしょう。
華道も、ただきれいに花を生けるだけではなく、季節やシチュエーション、目にする人間のことなど心の底から考え思い量って、それを花で表現するわけです。
茶道は、お茶を点てるという、それこそ日常茶飯事なことに対して、相手を想い、もてなすために色々と工夫をつぎ込むのです。
その“おもてなし”の工夫が日本の様々な伝統文化には込められています。部屋の造りから掛け軸や置物、花、室温や種々の道具。
招くお客さんのことに考えを徹底して、お茶室という非日常空間をコーディネートしているのです。
扇子を置くことで、相手と自分の間に結界を作り、敬意を表します。(P197)
私も、患者さんやその家族と面談するときに、目の前の机にボールペンを横に置くことがあります。なんとなく、それで相手との距離感を保っているような気がします。
煩わしい透明アクリル板が存在感のある壁として相手との間に立つことが多い世の中ですが、対話においてある程度の距離感というものは大切です。重要な対話の要素です。
「手」も、何もないときにも相手との非言語的関係に有用なことがあると思います。たとえば、腕を組んで相手の話を聞くと、なんだか偉そうですし、腕を組むことは“防御”の気持ちを表すこともあるようですね。
心を開いて相手と対話するには、手のひらを見せればいいという話もあります。私も患者さんやその家族との話しで少し詰まると、わざとらしくないように手のひらを開いてみることがあります。なんとなく自分の心も開かれる気がします。
茶道では扇子を置くことで“結界”をこしらえ、相手に敬意を示すようです。相手とのある程度の距離感、結界、ATフィールド。重要です。
一見するだけでは、無駄な空間のように思われる床の間ですが、無駄と思われるものの中にこそ、私たち日本人にとって季節感や心のゆとりなど、大切な精神的な意味が含まれているのではないでしょうか。(P212)
床の間は、神聖な感じがして乗っかることもはばかられます。実家にも床の間はありました。高そうな(安物だと思いますが)置物などが置いてあり、子供のころ遊んで走り回っているときにも、ぶつからないように入り込まないようにしないとな、と感じていた気がします。
神棚や仏壇など、神聖であまりぶつかったりしてはダメで、お祈りやご飯を上げたりするときくらいしか見ない場所というのも、家に一カ所くらいあってもいいのではないかと思います。
そういう神聖な、フシギな所も世の中にはあるんだということや、ここで述べられているようにそこに飾る花等による季節感、確保されたスペースによるゆとり感など、良い教育になると思います。
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話は変わりますが、我が家では旅行などで旅館を使ったときに、まっ先に床の間のツボや置物をスミに移したり戸棚にしまったりします。
子どもによる破壊を避けるためです。
「直心是道場」
・・・常に学ぼうというまっすぐな心を持っていれば、どこにいても今いる場所が道場となり、自分を精進させることができますよ。(P230)
OJT(on the job training)といって現場でのトレーニングが大切であると言われます。どうしても実務は机上の空論やシミュレーションだけでは分からないことに遭遇します。
言葉にできないこと、経験からの知識や技術、いわゆる“暗黙知”も、実地での体験から学ぶことができることもあります。
医学においても講義、実習、実臨床の場、学会や研究会、様々な勉強の場があり、人間相手の仕事ですから患者さんから学ぶことも多々あります。
その時に必要な姿勢は、ここに述べられているように「どんなことからも学ぼう」という姿勢ですね。
この姿勢でいれば、上手くいったことはそれでいいですが、上手くいかなかったことからも多くの学びを拾うことができると思います。
また、学び取ろうという姿勢は「謙虚さ」に繋がります。謙虚さはいわば自分を陰圧にしておくことです。
各家庭などにいわゆる水道水を送る上水道の管は陽圧になっており、多少管にヒビなどあった場合、水が漏れることはあっても汚水が入ることはありません。
逆に下水道は陰圧になっており、周囲の雨水や地下水、汚水もどんどん取り入れて流してやります。
心も同様です。陽圧の心は周囲から取り入れることが難しいかもしれません。逆に陰圧と言ってはなんですが、そういった心持ちであれば、周囲からどんどん取り入れることができます。これが謙虚ということですね。
謙虚さがあれば、どこにいても今いる場所が自分の成長につながる修業のための道場と考えることができます。それだけ、学びも多くなります。
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なんでも「教養」をつければいいってもんじゃない、と最近の『教養としての○○』を見ていると感じることもありました。
“教養”という言葉の解釈にも難しいものがありますが、ここでは茶道を知ることを通して、自分の生き方や思考に新たな栄養を与えてみようというところでしょうね。
そういえば、教養の“養”と栄養の“養“は一緒です。
栄養は主に身体に対しての養分、教養は主に思考に対しての養分といったところでしょうか。