ニーチェ~生き方のアラート、ドライブ、あるいはジェネレータとして

2020年6月1日

新編 はじめてのニーチェ 適菜収 講談社+α新書

ニーチェの考え方は、現代人の皆様にはぜひとも知っておいていただきたいものです。

私は仏教とのかかわりにおいて、ニーチェに惹かれました。彼はキリスト教をさんざんに批判していましたが、仏教については肯定的でした。なぜかなと思いました。

ニーチェについての本は、私の読書ネットワークのなかでは、仏教、キリスト教と哲学を結ぶ、重要なハブ拠点としての位置を占めています。

ニーチェの哲学は誤解されやすいと言われます。その思想が第二次世界大戦時のナチス党略に利用されたことからも、否定的にとらえられているところがあります。

「これまでの哲学を否定している」、あるいは「本人もちょっと変な人だった」といった話もよく聞かれ、「ちょっと過激な思想なのではないか」と、後ずさりする人もいるかもしれません。

私も、そう思っていました。よく見る写真も、ヒゲのいかめしい顔をした人物で、難しそうな印象を受けますし。

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しかしその哲学は、「生の哲学」とも呼ばれ、人間の活力ある生き方に寄り添うものだと言われます。

さまざまな解釈のされ方はある意味、ニーチェ研究者たちによる、ニーチェ思想の切り取り方にもよるのかもしれません。

どんな方面でも完璧で役に立つ思想というのは、なかなか難しいのではないかと思います。

とすれば、我々はその思想から自分の生き方や仕事、悩みなどに合う部分を受けとって(これは半ば都合の良い解釈でもいいのかもしれません)、活かすことができればという姿勢でよいのではないでしょうか。

いわばニーチェの思想は宝石の原石といったところで、後世の解釈によってさまざまな輝き方を見せるといったところでしょうか。

ニーチェの解説本は数多くあります。ことほどさように書き方、内容も様々で、ニーチェの原書のごとく堅牢なものもありますが、非常にとっつきやすい本もあります。

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今回ご紹介する本は、そんなニーチェの思想の神髄に、いい意味で「気軽に」、しかし「しっかりと」触れさせてくれる一冊です。

著者は作家、哲学者であり、ニーチェの思想、あるいは諸哲学や思想についての数々の著作を出しておられます。

また、この本の内容を物語にしたような『いたこニーチェ』はストーリーも面白く、のめり込みながらニーチェの思想を身に沁み込ませることができます。読み終わったときには、少し世界の見え方が変わっています。

この本は、ニーチェの思想に触れるうえで、まさに入門ではありますが、全体を見通すことができる一冊かと思います。

さらに、「ニーチェはこんなことを言いたかったんだ」ということが分かり、実際に私たちが世界を見る目を変えてくれると思います。

ニーチェ原書からの豊富な引用のもと、著者がその考え方をていねいに解説してくれています。

どうしても、ここで引用させていただいた文章も、ニーチェの原書からのまご引きのようになってしまいます。さらに詳しく知りたい人は、その部分を原書にあたって、読んでみるのも良いかと思います。

虐げられている人間は、当然敵に対して恨みを持ちます。普通だったら、「いつか見返してやろう」とか「そのうちやっつけてやろう」などと思う。でも、キリスト教の発想は違います。強い敵は「悪」である。弱い自分たちこそが「善」である。そう考えることで、自分をごまかします。価値基準をひっくり返すことで対抗しようとしたのです。

(P50)

ニーチェはキリスト教を否定しています。そのポイントは「ルサンチマン」です。

「ルサンチマン」とは、強いものが「悪」であり、弱いものは「善」であるという価値基準のもと、強者に対して憎しみや恨みで対抗する姿勢です。

キリスト教がローマ帝国などに虐げられた民衆の間に広まり、一気に世界宗教まで発展する原動力となりました。

現世では不幸な境遇であり、強いもの(悪)によって不幸な生き方を強いられているけれど、来世(死後)は天国に行くことができる、という思想です。

強いもの(悪)に対しては、なんとか結束して反抗し、憎しみながら生きていこうという態度です。

考え方の異なる集団、自分たちを脅かす集団を「悪」とするため、歴史上の多くの戦争にも、この考え方は影響しているようです。

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たとえば、上司にコテンパンにやられて、「上司が悪い」「あんな上司の元で働くなんて不幸だ」などとウジウジしているのは、まさに「ルサンチマン」の姿勢でしょう。

そうではなくて、「もっと勉強してスッキリと対応できるようになろう」とか、「もっと腕を上げて見返してやろう」などといった意気込みで、いきたいものです。

強者とは、精神的に気高い人間です。強者は、あらゆる価値が虚妄であることを認める。そして外部の価値に頼らずに、良心を持って自らをルールの主体と考える人間です。

(P145)

しかし、なにも「強いもの」といっても、強大な権力をほしいままにして民衆をいじめるような人間というわけではなく(そういう人もいましたが)、自分で努力して身体を鍛えたり、修業したり勉強したりして優位な立場にたどりついた人が多いのです。

それにたいして、「自分たちは虐げられている・・・」と、ろくな努力もしないでウジウジしている民衆が、ルサンチマンを蓄積しているのです。

(もちろん、様々な時代背景はありますから、現代人の考え方を当てはめて一概なことも言えませんが)

「すべての禍根の根は、謙虚、純潔、没我、絶対的服従という奴隷的道徳が勝利をしめてしまったということにある―このことによって断罪されて、支配的本能の持ち主たちは、①偽善を装い②良心の呵責をおぼえるにいたった、―創造的本性の持ち主たちは、おのれが神への反逆者であると、不安定で、永遠の価値によって制せられていると感じた」

(P63)

現代においても、がんばっている人を冷ややかな眼で見る、出る杭を打とうとする気持ちや行為。こういったことも「ルサンチマン」のような考え方から起こっているのではないかと思います。

たとえば優秀な後輩がいれば、やれ「謙虚さ」が大事だとか、「周囲とうまくやりなさい」などと、表向きのいいこと(そして、言っている自分はある程度できているのではないかと、思い込んでいること)を言う上司もいます。私もそういうところがあります。

もちろん、本当に目につく場合は言ってあげるのが相手のためですが、そういうことを言って、相手を「変に委縮」させてしまうようなことは、やってはいけません。

そういう「指導」をした気分になると、なにか後輩のためになっているような気がするのかもしれません。

そんなことをして自分の気分の安定など図るのではなく、上司は後輩に対して陰ながら見守り、何か変なことがあったら軌道修正したり、起きてしまった失敗については責任をとったり、一緒に反省するような姿勢が、いいのではないでしょうか。

道徳は私たちの人生において、私たちが作り出したものであるということ。そして私たちを守るものであり、私たちにとって必要なものでなければならない。決してそれ以外のものではない。カントのように単純に道徳を尊敬するのは有害である。「徳」「義務」「善自体」といった無人格で普遍的な「善」など幻想にすぎない。

(P113)

キリスト教、プラトンからカントなど近現代の哲学者につながる、「道徳」の思想も、理想的な「道徳」、普遍的な「道徳」というものがあると考え、それを目指すべきだとしています。

しかし、客観的、普遍的な「道徳」というものがあるのではなく、その時その時、相手や状況に応じた“個別の”「道徳」があるのだと思います。

それため、学校教育などで全員一斉に「道徳」を教諭することは、難しいのではないかと思います。学校教育は数学や科学、言語の修得など本当に客観的・普遍的なことを教えるにはいいのかもしれませんが。

「道徳」に関しては、個々の児童・生徒が、日常の家庭生活や学校生活で経験した出来事を元にして、どのように考えたであるとか、似たような過去の例ではどのような対応があったかなどを参照してあげるのが、良いのではないでしょうか。

どこかに唯一の真理、真の世界があるのではない。権力への意志により解釈され、発生した個別の真理、個別の世界があるだけだ。だから認識の数だけ心理は存在すす。そういう意味で、世界は虚構であり、心理は誤謬(あやまり・まちがい)なのだ。しかし、その虚構と誤謬は、生命を維持・促進させるための条件である。

(P126)

だれにでも同じように見える客観的な世界というものはなく、それぞれが、自分の知識、経験などによって解釈した世界があるのみです。

この、自分の知識、経験など、いわば身の丈に合わせて世界を解釈し、その中で生きていこうとすることが、「権力への意志」ではないでしょうか。

その解釈ができずに、「世界に自分を合わせなければ」と考えると、生きにくくなるのかもしれません。たとえば自殺を思うことは、この「権力への意志」が弱くなっているのかもしれません。

自分なりの世界観を持ったり、世界を解釈して虚構を作ったりすることができなくなっているのです。言ってみれば、真面目すぎるのでしょう。

利益、成果優先の職場に合わず、ひきこもりになったり、うつ病になったり、あるいは自殺を考えたりする人がいます。

こういった人は、世界をそのまま真面目にとらえすぎていて、自分の「権力への意志」により自分なりの世界を作ることが難しいのかもしれません。

客観的な世界など、最初から存在しない。世界とは、それぞれの認識器官が生み出す一種の虚構であるというわけです。客観的な歴史というのもウソです。それは歴史の中を生きている自分の視点ではなく、その外部に視点があるという考え方です。そこにあるのは「神の視点」です。ニーチェはそうした歴史観も否定しました。

(P120)

そういった意味では、今現在の世界でさえも自分が解釈したものですので、「歴史」などという過去の出来事についての描写も、歴史家や研究者による解釈といえるでしょう。

よくよく考えてみれば、「楽しい」というのは大事なことです。ニーチェを読んでいて感じることは、結局、ニーチェは、「楽しい世の中」にしたかったのではないか?ということです。今の世界は嫉妬や恨みの原理により成り立っている。不健康な物語を信じ込まされていて、身動きのとれない状態になっている。でも、もっと美しいものや力のあるものを肯定し、健康的にやりましょうという話です。

(P170)

ニーチェは、これまでキリスト教や諸哲学により小難しく生きにくい世界になってしまったこの世界を、人それぞれの考える生きやすい世界にしたかったのでしょう。

そのためには、皆さんがこれまで得てきた知識や経験といった”色眼鏡を使って”、この世界を見ることです。客観的な真理の世界ではなく、自分が生きるために都合のいい世界です。

自分の都合というと、人々の都合同士が衝突してしまうことが懸念されます。そこには仏教の教え(慈悲・利他など)が役に立つかもしれません。

ニーチェ哲学+仏教は、最強の「生き方ツール」だと思います。

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ニーチェの考え方は、我々の生き方、世界の見方を変えてくれます。以下のように。

  • 「これまでの生き方や世界観、ちょっと間違ってませんか」という警告(アラート)
  • 「こういうふうに生きていいんだよ」という駆動(ドライブ)
  • 「自分の解釈を活かし、新たな生き方や活力を生み出そう」という生成(ジェネレータ)

ブレーキも必要かと思いますが、このブログでも度々紹介しています「仏教」や森信三先生などによる「人間学」など、オススメのものは揃っています。

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