カナリア外来へようこそ 仙川環 角川文庫
さまざまな“過敏症”を訴える患者さんが訪れるクリニック「カナリア外来」を舞台に、それぞれの患者さんを取り巻く物語が繰り広げられます。
過敏症の原因は特定のにおいであったり、日光であったり、夫であったり? とさまざまであり、それがクリニックの院長の診察や看護師の尽力、そして当事者の協力で解決されていきます。
読んでみると、過敏症という症状はなにも特殊なものではなく、人よりも感覚が鋭いことであって、人間が生きていくためには重要な存在なのではないかと感じました。
化学物質をはじめ、さまざまなモノ、コト、あるいはヒトに対する過敏症や付き合いにくさを感じている人は多いと思います。
そんなとき、「自分は特殊」と考えないで、自分はこう感じるということを他の人にも訴えていくことが、場合によっては大切なのだなと考えさせられました。
むしろ過敏症の人は、他者が感じない、まだ感じるに至っていない有害物質や有害事象、あるいは人間関係や社会の仕組みを改善していく、そんな一歩を真先に踏み出すことができる人なのではないでしょうか。
そんなことを考えさせてくれた一冊でした。
「過敏症の人たちを炭鉱のカナリアになぞらえる人がいるんだ。私もそんな気がする。あくまでもイメージだけどね」(P28)
タイトルにもある“カナリア外来”の「カナリア」はここから来ているのですね。カナリアは人間よりも有毒ガスなど有害物質に敏感なので、有毒ガスの発生に注意が必要な炭鉱では、作業員はカナリアを入れた籠を持っていたそうです。
そういったちょっとした異変に気づかない人は、気にならないだけであって、実際は長時間さらされることによって水面下に悪い影響を受けているのかもしれません。
感じることができない人は、知らぬ間に身体や精神に負担をかけている可能性もあります。そして心身の病や不具合として表面化することになるかもしれません。
多くの人が感じることのないものを感じるということは、一つの能力だと思います。自分が不快と感じるものは、いずれ程度が上がれば過敏ではない他者も不快に感じてくることでしょう。
過敏症の人が勇気をもって一歩を踏み出し、その不快を指摘し改善策や意見を提示することは、まだ被害を受けていない他者を救うことにもなると思います。
今は一人の人間として患者と相対するように努めている。原因が分からなかったり治療法が確立していなかったりする疾患を診る医者に必要なのは、確信に満ちた専門家としての態度ではなく、患者と一緒に悩みながら前に進もうとする姿勢ではないだろうか。(P153)
科学的根拠により原因や治療法が確立している場合には、その知を患者さんに導入して患者さんを診療することが、医学の王道ではあります。
それでも原因が分からない症状や、治療法が確立していない疾患はあります。科学的根拠に乏しいものでも、治療として有効や処方や処置もあります。
とくに痛みやツラサといった自覚的なもの、主観的なものは科学的客観的に対応するだけでなく、患者さんを一人の人間として相対し、患者さんの身になっていかにその主観的な症状をやわらげることができるかを考えることが大切です。
過敏症をはじめ、心身の症状には往々にして心理的精神的な要素もあります。そういった場合はとくに、患者と一緒に悩みながら横について同じ方向を見て歩くような気持ちが、大切かと思います。
「過敏症って、身体の問題だと思っていました。でも、それだけではないのかも」
・・・「目加田さんの奥さんも、奥さんのお母さんも、情報に過敏なのでは? それはそれで辛いと思います。いろんな情報にいちいち反応しちゃうわけだから」(P184-185)
このカナリア外来に関わる登場人物は、何らかの物質に過敏症を示していることがほとんどです。
しかし、身体的な過敏症はともかく、精神的な過敏症を来している人間も多いと思われます。そして、そのことも身体的過敏症を持つ人間を生きにくくしている気がします。
一般的な病気の場合もそうですが、診断がつけば、原因が分かれば、治療法があるはず、何とかなるはずと考えます。
もちろん、治癒が望める治療法が存在する病気もあり、症状を緩和することができる症状も存在します。
それでも、未だ原因も分からない疾患や治療法のない症状はあります。確実な情報を探し求めるよりも、先ほどの引用でもあったように医療者や家族が患者さんと一緒に悩むことが、より症状の緩和に直結することや、意外な解決策に至ることもあります。
それでも、どこかに答えがあるはずだ、知識や情報を得て、技術のある医者を探せば解決できるはずだ、と考えてしまいがちです。
少しでも良くなると感じられる話があると、すぐに飛びついてしまう。あるいは新たな情報を見つけるたびに過度に反応してしまう。
本当に大切なことは、情報にいちいち反応することよりも、今の状態に向き合って寄り添うこと、一緒に悩むことという場合もあるはずです。
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これは、病気以外についても言えるかもしれません。自分の現状を良くするには、より良い進路を見つけるには、より良い就職先を見つけるには、知識や情報を集めよう、と考える風潮があります。
もちろんそういった手段も全く無くていいわけではありません。ただ、それだけではなく今の自分の気持ちや現状をよく見つめてみること。その現状や気持ちを大切にすることも、考えた方が良い場合もあるのではないでしょうか。
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それでは、カナリアが生きやすい空間を作る方向に考えてはどうでしょうか。周囲の環境に敏感で、ちょっとした害にも弱いカナリアが安全に安心して暮らせる空間を。
炭鉱など危険な場所における危険察知の役割とは反対に、そんな弱いカナリアでも楽しく過ごせる環境を目指すことが、人間ぜんたいが楽しく暮らせる社会の実現に繋がるのではないかと思います。
世の中は、大部分はいわゆる健常人なのかもしれませんが、目の見えない人、耳の聞こえない人、そのほか様々な障害を持つ人もおられます。
そういった障害を持つ人でも困難なく暮らすことができる社会を目指すことによって、健常人にとっても何か不測の事態が起きたときのことをそれほど心配せずに暮らすことができると思います。
過敏症がある人、障害がある人、あるいは発達障害や自閉スペクトラム症などと診断されている人でも、不自由なく暮らしていけるように目指していくと、人間の社会として理想的なものになるのではないかと思います。