神様のカルテ、神様のカルテ2、神様のカルテ3、神様のカルテ0 夏川草介 小学館文庫
私は、いわゆる“医療もの”の物語はキライでして、長らくこういった医療ものの小説やドラマは避けてきた気がします。
そうではありますが、最近勤め先の病院が変わったこともあり、医療について改めて考えようという気もあってかどうか分かりませんが、読み進めてみています。
この作品は医療ものの小説では5本の指に入るような有名かつ優れた作品だと思います。
以前から著者については別作品などを通して存じておりました。それでも、この主著を読むことは避けてきた気がします。
なぜ医療ものを避けてきたか。そういった小説やドラマにおいては、医師という点で同業である自分の仕事内容との、乖離や反省を感じることがあるからだと思います。
これまで見た医療ものの物語の中で繰り広げられている内容を見て、読んで、「その手術はそんなに難しくないだろー」とか「なんでその状態から助かるんだー」、あるいは「なんでその状況でマスクしないんだー」などと感じることが多くありました。
また、「そうだよね、そうできればいいよね」とか「自分もそう考えないといけないなー」などと、日々の診療を反省させられることもありました。
とは言っても、現実の仕事でも乖離や反省は感じられるものであり、それが成長に繋がるものでもあります。また、小説やドラマにかえって共感できることもあります。
だから、こういった小説の読書やドラマを見ることは、自分の仕事を磨いてくれるのではないかと最近思うようになりました。まあ、好き嫌いはあるかと思いますが。
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小説だから文章で書いているとはいえ、絵に描いたような多忙な医師の世界が繰り広げられています。
“24時間、365日対応”を豪語する病院を舞台とした物語なので、救急医療についても経験を積んだ医師ならではの描写がなされます。重症の患者さんもおられ、急変もあります。
しかし、そこに描かれているのは、医師の大活躍劇というよりは医師という存在が人間や病気という自然に対していかに非力か、介入できる余地が少ないか、であると感じました。
それでも、患者さんの人生を、とくに人生の終盤をより良くしていこうという医師の姿勢に共感するとともに、背中を押してくれるような力強さをいただきました。
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その一方で、主人公が陶酔している夏目漱石やその作品『草枕』をはじめ、名だたる文学作品や小説が物語の端々に登場することも、読書好きとしては読んで楽しいポイントですね。
また、物語の舞台である信州の地酒をはじめ、紙面を通して薫ってきそうなウイスキーやコーヒー、居酒屋の料理などが味覚・嗅覚に働きかけます。
ときには私もキライなタバコでさえも、嗜む人の心を癒やしてくれている効果に共感することができました。好きな方はどうぞ。分煙で。
そういった五感に働きかける描写は同時に、病院や病室、血の匂い、あるいは救急室の喧噪をも彷彿とさせ、読者もその場にいるような気分にしてくれます。
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著者である夏川草介氏の作品については、以前『本を守ろうとする猫の話』を読ませていただきました。氏の著作ではその本が初めて読んだものでした。
氏の本や読書に対する思いや考え方が感じられ、とても共感しました。そういったものが、この作品にも込められています。
“医療もの”の小説は、たんに医療を描いただけでは面白くありません。それでは単なる病棟日誌や救急部日誌、あるいは個人的な記録になります。
医療を通して繰り広げられる患者さんや家族の考え方、生き方があり、状況柄それに対応する医師や看護師など関係者の考え方、生き方があります。
そして、そこから汲み出される人間の根源的な考え方や生き方、あるいは生や死に対する考察があってこそ、興味深い作品になるのだと思います。
この作品は、いずれの要素にも満ち溢れており、さらに読書や趣味といった人間らしい生き方の要素もふんだんに織り交ぜられた素晴らしい作品と思います。
点滴やら抗生剤やらを用いて、絶える命を引き延ばしているなどと考えては傲慢だ。もとより寿命なるものは人知の及ぶところではない。最初から定めが決まっている。土に埋もれた定められた命を、掘り起こし光を当て、よりよい最期の時を作り出していく。医師とはそういう存在ではないか。(神様のカルテ P175)
思えば人生なるものは、特別な技術やら才能やらをもって魔法のように作りだすものではない。人が生まれおちたらその足下の土くれの下に、最初から埋もれているものではなかろうか。(神様のカルテ P245)
たしか、彫刻家のミケランジェロも言っていたと思います。人違いだったらスイマセン。「私は石を彫刻しているのではなく、石に埋まっている彫刻を掘り出しているのだ」と。
彫刻作品を彫るということは、石の塊から自分が思い描いたような形を彫り出すのではなく、もともとその石に埋まっている形を、世に出す手伝いをするだけということです。
そもそも、彫刻を作る前の原料の石を見ても、そこから何が彫り出されるかは分かりません。作者があらかじめ「天使を彫る」だとか「ダビデ像を彫る」などと宣言していれば、それを聞いた人はこれから何が彫り出されるのか分かり、おおよその形も予測できるでしょう。
でも、姿勢や顔つき、動作、あるいは感情表現などは完成品を見ないと分かりませんし、それは作者も同様かもしれません。製作中に元の構想から変わることもあります。
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それでは人生なるものは、どうでしょうか。同じですね。人が生まれおちて後にどのような人生を歩むかは、だいたいの予想はできます。何カ月で歩きだして、しゃべって、食事をとって成長して義務教育ののち高校や大学など、あるいは就職して仕事につくなどなど。
平均寿命というものも示されており、生まれおちた人間が、どのくらいの年月生きるかも予想がつきます。
病気についてもある程度分かっています。様々な病気があり、何%の人がかかる。何%の人は治る、何%の人はこの病気で死ぬ。そして100%の人は老い、そして死ぬ、と。
とはいえ、彫刻と同様に人生も彫ってみなくては分からないといったところはあるでしょう。ある程度の構想はあっても、結果としてどんな人生になるかはその経過によるということで。
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では技術や才能はどのように働くのでしょう。彫刻にしても、知識や技術は必要です。石の性質から道具の性質を知ること、その扱い方など。
人生という彫刻を彫るにしても、知識や技術というものはあるでしょう、彫刻の知識や技術が師匠や本などによって得られると同様に、人生の知識や技術も先生や師匠につくこと、あるいは読書によって得られるものと思います。
様々な人間が、自分の人生に影響を与えてくれます。人生の知識や技術も様々な人間や読書から得られます。
その中で、医者というものは、人間の人生に対して健康や病気を切り口として知識や技術を与え助力する存在なのではないかと思います。
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そういった中で、人生という彫刻の最後の仕上げとなるのが人間の死です。「終わり良ければ総て良し」「画竜点睛を欠く」という言葉もあります。
どうしても死の間際に至っては、本人は老化や病気による身体能力の低下、思考能力の低下があるもので、自分の死を良くする努力が難しいものです。
そんなとき、ご家族とともにご本人の死を良いものにする一助ができるのも、医者なのかもしれません。
私の足元をゆさぶるように、ゆらゆらと無数の異なる選択肢が脳裏をよぎっていく。
別の医療を選ぶことだってあり得た。(神様のカルテ P215)
データだけからの判断ではなく、選択肢に人間性を吹き込むのも、人間である医師の役割かもしれません。
データやエビデンス(過去の統計や研究から科学的に導かれた効果があるかどうかの根拠)だけからの判断で、人間の人生が進んでいくわけではありません。
なにも病気でなくても、日常の生活でも同様でしょう。“何が起こるか分からない”自然の中で生きるうえで、できるだけその“何が起こるか分からない”を解消してきたのが人間の進歩であります。
自然の野山に道が作られ、そこを通れば安全安心とされました。また、多くの人間がワイワイと暮らす社会においても規範つまりルールがつくられ、それを守っていれば大丈夫とされました。
しかし、そういった道や規範の外に、人生の妙味というか、意外な発見や出会いがあるものでもありましょう。
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医療においても道や規範となるガイドラインやエビデンスはあるとしても、選ばなければならない選択肢は出現します。
医療者も患者さんやご家族に、状況に応じて考えられる複数の選択肢を提示し、自発的に選んでいただいて医療を進めるようにしています。
しかし病気の治療を進めるにあたっても、感染症など“治る”病気もある一方で、糖尿病やがんなどの“治らない”病気もあるのが現状です。
“治らない”ならどうするか。とくにがんの場合には治療をするにしても心身的に社会的に負担を強いる場合も少なくありません。
そういった場合に選択肢を選んでください、治療するのかしないのか、どういう治療をするのか、と言われても、困ることも多々あります。
そんなとき、自分の考えを述べることや、ある選択肢に導いてあげること、これは医療者としては失格かもしれませんが、そういうことも場合によってはアリだと思います。
医師が「私ならこうします」「こういう考え方もあるのではないでしょうか」などと言うこと、あるいは患者さんの性格やこれまでの人生、経緯、人柄などを考えて最善と思う方向に導くこと。
本当にニュートラルに考えればそんなことはしていけないのでしょうが、そういう選択の提示や選択の補助も、あってもいいのではないかと思います。
そうするにしても、やはり患者さんの性格や人生などについて主治医は熟知し、ご家族などの意見もふまえたうえでの選択でしょうね。
そして、そういった選択をすることが、医学的に悪い方向、たとえば具合が悪くなったり、命を縮めてしまったりとか、そういうこともあるかもしれません。
医師には後悔が残るかもしれません。そうだとしても後悔もふまえて、患者さんの最善を考えることが、ツライですが医者の仕事の一端なのでしょうね。
「医師の話ではない。人間の話をしているのだ!」(神様のカルテ2 P337)
「お孫さんを思うなら、生きるための道を選ぶべきではありませんか。その道のりが険しくとも、いや、険しければ険しいほど、あなたがそれを選んだという事実が、いつかお孫さんにとっての励みになるのではないかと思います」(神様のカルテ3 P315)
昔から医療においてなにか判断に困ったときには、「自分の親だったらどうするか」「自分の子供だったらどうするか」と考えればいい、とよく言われます。“考えればいい”なんて気楽な場面ではないことが多いですが。
ともかく、この「自分の親だったら・・・」「自分の子供だったら・・・」という考え方は、まさしく「人間の話」をすることだと思います。
「医師の話」としては、病気に対するガイドラインやカンファレンス(検討会)での検討結果、あるいはデータやエビデンスなどを用いて患者さんに診療を考えることになります。
そうではなく、そこに生身の人間関係を考えさせるような要素、つまり自分の「親」や「子供」という親密な人間関係を持ち込んで、そのうえでどう考えるか、ということです。
まったくの他人である患者さんに対して、キカイ的に診療を行うのであれば、それこそDPC(Diagnosis Procedure Combination;診断によって一律に入院費用が決まる仕組み)に応じた必要最小限の診療を行うでしょう。検査を減らせば費用が浮く一方、検査や治療をたくさんしてもお金が出ませんから。
でも、患者が自分の親や子供であれば、なんとしても良くしたい助けたいと思い、考えられるだけの検査や治療法を注ぎ込もうとするかもしれません。しかし医療もお金があってこそ回っている以上、そういうわけにもいきません。
そのように全ての患者さんに「人間の話」として親や子供に接するように診療したいという気持ちと、「医師の話」として適正な医療を施すという気持ちのせめぎあいで往生するのが、医者というものなのでしょうね。
背反する二者があり、ときどきは一部を止揚して、患者さん個人個人にあった医療を提供するのだ、という気持ちでいいのだと思います。
とくに最近は患者さんやご家族の気持ちや人柄、考え方や生き方、つまり“ナラティブ”を基盤にして医療を進めるような傾向もありますので、良いことかと思います。
答えなどない。最善の選択なるものもない。
そんなものがあれば、生きることに誰も苦労はしない。
最良の医者と言っても、生き方は様々であろう。
いつでも患者のために駆けつける医者か、最先端の医療を提供する医者か、家族とともに地道な医療を続けていく医者か。見る者によって常に最善の選択は変わる。変わるということを知ることが第一歩である。(神様のカルテ3 P377)
職業とはいっても、医師にも個性があります。そもそも、外科であるとか内科であるとか、あるいは消化器内科や外科、循環器内科や外科といったように、医師の仕事内容にも違いがあります。
そういった、仕組みや制度上の違いもある一方で、医師の立場や姿勢にも違いがあると思います。研修医や専門医、あるいは職位の違いもあり、また開業医や勤務医といった違いもあります。
また、勤務医にしても勤務する病院の性質というものもあるでしょう。主人公のように“24時間、365日対応”の大きな救急病院に勤務することもあれば、大学病院のように最先端の医療を磨き研究や教育を進めつつ診療を行う病院もあります。
そういった勤め先が医師の性質を決定するということもあると思います。同時に、医師自身の考え方や生き方、仕事に対する姿勢もあると思います。
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これだけ考えると、医師といってもいかに一律ではないかが分かりますね。世の中いろいろな医師がいて、それぞれの“最善”を目指して働いているのです。
『医師は最善を尽くしているか』という本もありました。“最善”とは目標であって到達できる点ではありません。漸近線のごとく、近づくことはできても接することはない場所です。
患者さんも様々です。患者になる前に経験したことが患者さんの考え方生き方を作っています。それを持って患者さんとして病院に来ているわけです。
われわれ医療者も、様々な患者さんがいるのだと心得て、それぞれの患者さんに最善な医療を提供したいと考えております。
どうか患者さんも、様々な医者がいるのだとお考えになられて、ご自分の病気とご自分の生き方考え方を推し量られて、医療者と一緒に“最善”を目指されることを、ここにお願い申し上げます。
もとよりなぜ大学か、と問われてそれほど明瞭な応答があるわけではない。散々悩んだ割には、理由ははるかに見えにくく、根源的で、衝動的なものである。(神様のカルテ3 P434)
『神様のカルテ3』の終盤で市中病院に勤務していた主人公は、大学病院への異動を決意します。
なぜそうしたか。最新の医療を学ぶため。医療の限界を知るため。様々考え悩んだようですが、それでも理由ははるかに見えにくく、根源的で、衝動的なものとのことです。
理由というものは、後付けが良いのではないかと思っています。あとから理由を考えたほうが、自分のとった行動にしっくりきます。
ある選択肢を選ぶとします。その時点で明確な理由があることもあれば、あまり明確でないこともあります。
あとから振り返ると、「あの時はこう考えて、その選択肢を選んだのだな」と自分で納得することもあります。
それは、ある意味では当たり前であって、後になれば自分が行ってきた行動がどういう結果になったかが分かるからです。
そうなれば、「あのときはこういう理由で行動したら、こうなったんだ」とか、逆に「別な選択肢を選んでいれば、そうはならなかった」と考えることができます。
しかし理由は往々にして行動前に考える必要があります。なぜそれをしょうと思うのか。なぜそこに行くのか、理由を考えても考えつかないこともあります。もちろん当てつけたような理由を並べることはできます。
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医学生は医学部を卒業後、2年間は卒後臨床研修制度のもとで研修医として研修を積む必要があります。ではその研修先の病院をどうやって決めるか。
症例が多い、救急医療に長けている、設備や研修システムが良い、給料が良い。様々な理由が考えられます。
われわれも研修医となる学生に対して、よく「大学病院は難しい症例や個々の症例について深く掘り下げて診ることができる、市中病院では数多くの症例を診て経験することができる」などと言います。
もちろん、ウソではありません。しかし、大学病院でも数多く診ようとすればできるでしょうし、市中病院でも深く掘り下げて診ることができます。
要するに、本人の姿勢しだいです。でも、研修医になる学生としては、深く診たいから大学病院、たくさん診たいから市中病院というのも選ぶ理由の一つになります。
研修した先で気持ちが変わることもありますし、行ってみたら予想や聞いたことと違っていたということもあります。そのとき理由は崩れるかもしれません。
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決定打的な理由を用意しなくても、どこにいってもどんな環境でも自分はこんな感じに検修したいのだ、程度で良いのではないでしょうか。
あまり、これといった固い理由をこしらえて先々考えなくてもいいのかもしれません。今ここで何ができるか、今ここで何がしたいか、ということくらいを携えて、生きていけば良いような気もします。無責任な感じですが。
むしろ、言葉にできない根源的、衝動的なものを大切にするのが良いでしょう。なんとなく、虫の知らせ、そして直感ですね。
そのためには、日頃から自分の心と仲良くして、自分の心の声を聴いてあげるようにしたいところですね。
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市中病院から大学病院への異動。今回、私は今回、その反対の異動を経験してカルチャーショックともいうべき違いを感じております。
主人公は大学病院に移ってどうなるのか。それが描かれた続編の『新章 神様のカルテ』も、ぜひ読んでみなければと思っています。
“ヒトは、一生のうちで一個の人生しか生きられない。しかし本は、また別の人生があることを我々に教えてくれる。たくさんの小説を読めばたくさんの人生を体験できる。そうするとたくさんの人の気持ちもわかるようになる”(神様のカルテ0 P198)
登場人物の一人である国語教師の国枝さんが、主人公に語った言葉です。まさに、小説を読むことの真髄が述べられています。
人間は生きている限り自分一人ぶんの人生しか体験できません。自分の人生から経験すること、学ぶことも大切にしたいですが、他人の人生を経験することでより多く学ぶことができます。
そんな“他人の人生”を経験させてくれるのが物語であり小説です。小説は自分とは異なる人間あるいはその他が何を経験したか、どう考えたか、どう生きたかを教えてくれます。
「たくさんの人の気持ちもわかるようになる」、つまり著者の夏川草介氏が『本を守ろうとする猫の話』で述べた「人を思う心」であり、森信三先生のおっしゃる「人間心理の洞察」ですね。
人は他の人との間でうまく関わり合うことで“人間”として生きることができます。そこからは対人関係など悩みも生まれますが、また一方で幸福もそこに生まれます。
人間関係をうまく進めるのに必要なものが「人を思う心」であり「人間心理の洞察」です。それを学ぶのは日々の実践であり、小説でもあるのです。
思えば人生なるものは、特別な技術やら才能やらをもって魔法のように作りだすものではない。人が生まれおちたらその足下の土くれの下に、最初から埋もれているものではなかろうか。(神様のカルテ P245)
「神様がそれぞれの人間に書いたカルテってもんがある。俺たち医者はその神様のカルテをなぞっているだけの存在なんだ」(神様のカルテ0 P206)
本シリーズのタイトルである「神様のカルテ」とは、こういうことだったのですね。
引用の前半は再引用になります。『神様のカルテ』で提示された“足元の土くれの下に、最初から埋もれているもの”は、『神様のカルテ0』において、それが「神様のカルテ」であると提示されたのではないでしょうか。
もしかして一般の人には自分の「神様のカルテ」が、それこそ土くれの下に埋もれて見えないのではないかと思います。
それを明らかにする仕事、わずかでもなぞってカルテの当事者に教えることが、医者の仕事なのかもしれません。
もちろん、「神様のカルテ」を見ることができるのは医者だけというわけではないでしょう。
人間の存在、生き方、生や死などを古来考え、解釈を与え続けてきた哲学者、あるいは宗教者もそうでしょう。
また、知識や技術を磨き、仕事を通して人間の人生や生き方とはどういうものなのかを感じるようになった職人。そして、まさに自ら人間の生き方を豊富に経験して、人生を達観する立場となった高齢者。
そういった人たちには、人間の生き方を書き記す「神様のカルテ」の章立てやページ設定、あるいは見方や使い方が、ある程度は分かるのかもしれません。
ただし、そのカルテを書き換えることはできません。おそらくカルテの改ざんは神様でさえもできないことなのです。
それでも我々は、そのカルテをなぞること、見ること、知ることはできます。医者や哲学者、宗教者など「神様のカルテ」に慣れている人間に相談するのもいいでしょう。
また、自ら日々の実践や読書などから学び勉強して、「神様のカルテ」について、そしてその扱い方についてノウハウを得るのもいいのではないでしょうか。。
どうも、物語(ファンタジー)というものは勘違いされているきらいがあって、「生の現実」より数段浅い、たわいない、くだらぬものと思う人がいるようですが、それは本当に大きな間違いだと私は思います。
「現実」に深く思いの針を下した人でなければ、心地よい物語(ファンタジー)は書けません。(神様のカルテ P251)
『神様のカルテ』の巻末にある、上橋菜穂子さんによる「解説」からの引用です。物語や小説に対する誤解されやすい考え方について、ズバッと切り捨ててくれます。
小説読書をエンターテイメントのため、娯楽のためとおっしゃる人もおります。たしかに小説を読んでいると展開にハラハラしたり、様々な経験を知ったりすることができて楽しいものではあります。
一方、そうやって楽しむもの、つまりエンターテイメントや娯楽であり、実用的ではなく必要なものでもない、と見なされがちなのではないでしょうか。
また、物語の舞台や内容は現実の日常とはかけ離れていることが多く、作りごとであり読んでも実生活には役に立たないと思われているかもしれません。
しかし、心地よい物語(ファンタジー)はナイフのように実用的ではなくてもナイフを握る手に力を与えてくれるように、現実の日常にも力を与えてくれると思います。
そして、そういった心地よいファンタジーを作ることもまた、「現実」に深く針を下して日常の機微や人間心理を洞察したうえで成り立っているのです。
上橋菜穂子さんの代表的な作品である『精霊の守り人』についても、私はテレビドラマで拝見しただけですが、そう感じました。
フィクションの世界ではあっても、現実にも存在するような様々な人間の心理を深く洞察した上で成り立っている作品であり、同時に見る者に対してもそういった人間心理を考えさせてくれる作品です。
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“読書を仕事や生活に活かす”ということは喧伝されています。哲学、宗教のような読書から人間関係に活かすことができ、実用書などはそれこそ実用的に仕事や生活に活かすことができます。
一方で、“活かす”といわないでも、あるいはそれ以上の効果があるのが“読書を仕事や生活に染み出させる”ということではないかと考えています。
これは様々な古典を読み、その考え方を身に付けることでも可能でしょうし、多くの小説を読んで多くの人生経験を仮想的にも積むことで成し得ることもできるでしょう。
この作品の主人公である医師は、『草枕』を常に携え全文暗記しており、夏目漱石をはじめ多くの文学作品、小説を読んでいるようです。
私も『草枕』を読みはじめてみましたが、まずまずの長さであり全文暗記は難しそうです。
そんなもの暗記して何になるのか。そりゃちょっとは語彙や文章思考の足しにはなるかもしれないが、と思うかもしれません。
しかし、そういった暗記するまでの読書から得られるのが“読書が生活に染み出す”というものだと思います。
思えば江戸時代の寺子屋や塾といったところでは、子供たちや学生は四書五経など漢籍の素読や暗唱をさせられておりました。
そういった理屈ではなく身に沁み込ませた素養が知らぬ間に薫ってくるのもまた、読書の効果ではないかと思います。
この作品の主人公はまさに、『草枕』をはじめとした物語を身に沁み込ませ、言動や考え方に染み出すことはもちろん、コーヒーのように芳醇な薫りを放つものと感じます。
そのように、読書を積んで仕事や生き方に活かしつつ、読書が仕事や生き方に“染み出る”ような人間になりたいと、改めて思いました。